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TAKESHI

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2007.11.12 Mon
西方見聞録―幻のアルゲ・バム


2000年の夏に、約2ヶ月かけて中国の上海からパキスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イタリアのローマへと、汽車と乗り合いバスを乗り継いで旅をした。シルクロードである。13世紀の昔、マルコ・ポーロはイタリアのヴェネツィアから中国の西安にかけてシルクロードをゆき、後にその旅行記を『東方見聞録』としてまとめあげた。当時の私の旅は、まさにマルコ・ポーロの辿ったのとは逆の道をゆく旅であった。旅先で書き記した日記は、総計50枚以上に及ぶ。したがって、私の旅日記は『西方見聞録』。副題は「マルコ・ポーロを求めて」。これから手元にある旅行記をもとに、私の記憶に残るいくつかの風景を再び旅してみたいと思う。


 


今回は、イラン・イスラム共和国のバムという町。


 


バムはイランの南東部(ケルマーン州)に位置する小さな町である。現在(2007年11月12日)にいたるまでいまだに解放されていない横国大生の中村さん(23)は、このバムで武装集団に誘拐された。バムはパキスタンとの国境に近い町である。アジア横断を目論むバックパッカーは、確実と云っていいほどイランを経由しなければならない。中村さんもアジア横断の最中であったという(無事の解放を心より祈る)。


 


2000年7月24日(月)、私はバスでバムに到着した。その日の私は(全日程を通してそうであるが・・・)強行日程であった。パキスタンのタフタンという町(どこだ???地図に載ってないぞ)からイランへ国境を越えるとそこはミルジャワという町であった。パキスタンからイランへ国境越えする際のイラン側のイミグレでは、アフガンの人たちが大行列を作っていて一向に進む気配がなかった。最前列を見てみると、そこではイランの警察がアフガン人の持ち物の「すべて」をチェックしていた。しかも、警察の作業はひどく乱暴でアフガン人に対する軽蔑に満ちていた。アフガン人には、日本人にそっくりな人が何人もいた。聞くところによると、アフガニスタンからイランへ向けて日々かなりの量の麻薬が密輸されているという。イランのイミグレの人は、アフガン人を風紀の乱れの元凶として目の仇にしている様子だった。私は日本人ということで、その列には並ばずに、すぐに国境を越えることができた。「Japanese? Welcome to Iran」と云ってそのイミグレの人は、イランへ通ずる扉を親切に開けてくれたのだった。アフガンの人たちを除くと、そのイミグレに外国人は私だけだった。それにしたって、この「人種」差別は一体何なんだ。アフガン人の一部は日本人に非常に似ているため、私を見るとイランの警察は初め高圧的な態度にでてくる。しかし、日本のパスポート(赤いやつ)を見せると、その態度は一変し今度は恭しい態度で私を迎える。ヒドイもんだと思った。たかが手帳ひとつで人に対する態度をコロコロ変えるなよってさ。


 


ミルジャワからトラックの荷台(タクシー)にのって、永延とつづく地平線上の土獏をひたすらゆく。イランに入って、道路が舗装されているのでビックリした。パキスタンから国境を隔てて風景は一変した。イランの気候は極度に乾燥していて、日中は40℃を超える。陽射しは、まるで槍のように体を突き刺してくる。しばらくすると、バルチスタン州のザへダンという比較的大きな町に到着した。今度は乗り合いバスに乗り換えだ。バスの待合所では、ラリっている大人や子どもが何人か話しかけてきた。この町はとても雑然としていて、心なしかラリっている人が多いように見えた。ザヘダンからバスに乗って、一気にバムへと向かった。窓際なので陽射しが顔面に突き刺さる。面白いのは、飲み水のサービスが定期的にあることだ。イラン人にとってもこの暑さは堪えるらしい。


 


夜にバムに着いた。度重なる強行日程とイランの突き刺すような乾燥した暑さのために、体調がすっかり悪くなっていた。実は、イランに来るまでに、既に2回吐いた。そして3回目を、バムのホテルで吐いた。ゲリぴーにもなった。熱が出た。しかし、イランは観光業が発展していないため、路上の店屋がほとんどなく、あったとしてもすごく不味い(ちなみにコーラはない。そのかわりに「ザムザム」というコーラそっくりの飲み物がある)。にっちもさっちも行かない状態。しかし!次の日何を思ったか、そんなフラフラの状態で、アルゲ・バム遺跡に行った。ムチャをするのが大好きだから。


 


アルゲ・バムは、世界遺産にも登録されている(私が行った当時は登録されていなかった)古代の要塞都市の遺跡。百科事典的な知識を云うと、この遺跡はササン朝ペルシア期からサファヴィー朝期(16-17世紀)にかけて完成された都市であったが、アフガン人(パシトゥーン人)の攻撃があった1722年以降に放棄され、廃墟となった。「死の町」と呼ばれている。


 


この遺跡のすごいのは、土でできた美しい町並みと城塞がそのまんま(!)整然と残っているところ。私が行ったときは、観光客なんて1人か2人くらいしかいなかった。「観光客に忘れ去られた町」だった。そこが一番スゴイ!遺跡の中には本当にだんーれもいないもんだから、風の音が良く聞こえたし、空は真っ青だし、ぐるぐるぐるぐる廻っているうちに迷ってしまって(かなり大きな廃墟だった)、意識もかなり朦朧としていた。なんか昨日までそこに沢山の人が住んでいたのに、突然跡形もなく消えてしまったような感じ。正直云って、信じられない。限りなくミステリー・ワールドだった。


 


ところが、2003年にちょうどバムを直撃する大地震が起こって、この遺跡はそのほとんどがバラバラに崩れてしまったとか。地震が起こった後に、この遺跡がやっと注目され(遅いよ・・・)、世界遺産に登録され(遅いよ・・・)、そして現在は復旧されているとか(それってレプリカ!?)。


 


大地震の後にアルゲ・バムに行った人は是非その情報を教えて欲しい。でもきっと、世界遺産に登録されちゃったから、いまは観光客でいっぱいだと思う。その上、いまは政治的な問題で治安がかなり悪化しているらしく、外務省の危険情報ではパキスタン国境近辺ののバルチスタン州とバムのあるケルマーン州には退避勧告(危険度5)が発令されている。つまり、旅行目的ではビザが下りにくい状態。この勧告がいつ解けるかは未定。邦人の誘拐事件があったし、しばらくは難しいと思われる。


 


あの時のバムは、もう二度と見ることはできない。


すべてが変わってしまった。


あの時行っておいてよかった。


 


きっとそう思える場所が、これからどんどん増えてくると思う。


グローバル化も世界遺産もその進行はもう止められないのだから。


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