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2008.05.22 Thu
キューバとチェ
aleida2[1]


最近、2つの本をほぼ同時に読み終わった。
『小さな国の大きな奇跡―キューバ人が心豊かに暮らす理由』(吉田沙由里 2008 WAVE出版)
『わが夫、チェ・ゲバラ―愛と革命の追憶』(アレイダ・マルチ 2008 朝日新聞出版)

どちらも今月(2008年5月)に出版された新刊だ。前者の本では、キューバの社会システムの素晴らしさに感心させられた。教育と医療と福祉が無償、世界で最も人種差別のない国、世界トップ水準の医療、積極的な国際貢献、年を取ることが楽しみな国・・・等々。どれもこれも革命後、フィデルとチェが目指し、そして創った社会体制だ。フィデル・カストロという人物の凄さに感嘆させられてしまう。トップに立つ人間のあるべき姿を彼は体現している。本書の最後には、「チェ・ゲバラがつないだ私と日本」というアレイダ・ゲバラの特別寄稿文が載っている。

後者の本は、『Evocación』(追憶)という原題のチェの妻アレイダ・マルチの生涯を綴る本である。伝説化・神話化されてきたチェの人物像を内面から捉えた書として貴重な資料でもある。本書に載せられている何枚かの写真が興味深い。彼女が老いてゆく姿がよくわかる。「ときには私のことを思い出してください・・・・」という最後のコトバが印象的だった。

前者の本のアレイダ・ゲバラは、後者の本の著者アレイダ・マルチの娘である。両書を一緒に買う時に気づいたのだが、不思議なめぐり合わせであった。

もう一度キューバに行きたい。
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2008.05.14 Wed
チベット族?!
dalai-lama1[1]


五輪聖火リレーを含む、中国のチベット問題が世界的な話題を呼んでいる。
最近では、胡錦濤国家主席の来日と四川省の大地震で少し雲隠れになっているかもしれないが。

チベット問題を扱うニュース番組を見ていていつも気にかかることがある。
「チベット『族』」という表記だ。

「族」という表記は、現代において差別的なニュアンスを含む語である。考えてみて欲しい。私たちは、「日本族」とか「中国族」とか「アメリカ族」とか言うだろうか。言わないし、聞いたこともない。しかし、「チベット族」とか「ウイグル族」とか「グアラニー族」とかは言うのだ。そしてそこに、『無意識的な』差別が存在している。

英語で「民族」を表わす概念は、「ネイション(nation)」と「エスニック・グループ(ethnic group)」
のふたつである。その内、エスニック・グループとしての民族は、同一の文化習俗を有する集団を意味する。つまり、「日本人」も「中国人」も「アメリカ人」も、各民族の総称である。そしてもちろん、「チベット」も「ウイグル」も「グアラニー」も、同一の文化習俗を有する集団、つまり民族である。

一方で、「部族:トライブ(tribe)」という概念がある。「部族」は「民族」と同義で用いられることもあり、両者の呼称のあいだには明確で客観的な区別はない。しかし、歴史的に「部族」の概念は、植民地主義的観点から「未開」で、国家形成以前の形態をなす一つのまとまりとして捉えられてきた。

通常、「チベット族」という場合の「族」は、「民族」の「族」ではなく「部族」のそれを指すことになる。だから問題なのである。当たり前のことだが、チベットの人は「未開人」ではない。「未開」という語も注意が必要な概念だが、ここでは詳しく述べない。例えば、こうした概念に敏感な文化人類学の分野では、論文中で「-族」という表記を無批判に使用したら、大問題になる。私はパラグアイの「エンヘット」という先住民族を修士論文の研究対象にしたが、論文中では「先住民エンヘット」や、単に「エンヘット」という表記を使用した。実は、「先住民」と「先住民族」の違いにも深い問題があるのだが、ここでは割愛しよう。

私は「族」を使うな、と言っているわけではない。「-族」という語は異国情緒・他者性をかもし出すのに非常に便利なコトバである。特に『ウルルン滞在記』では。「マオリ人」や「ウイグル人」といった言い方はあまり馴染まないかもしれない。要するに、「族」を使うことが問題なのではない。「族」を『無批判』に使うことが問題なのである。

「族」は差別的なニュアンスを含むコトバ(いわゆる差別用語)であると知っていて使うのと、それをまったく知らずに使うのとでは、大きな違いがある。そして、報道ステーションやNEWS・ZEROがそれらを認識した上で、あえて「チベット『族』」という表記を使用しているとは到底思えない。

なんだそんなこと、と思うかもしれない。
しかし、差別や偏見が紛争を生み、その差別や偏見は無意識と無批判から生じていることを忘れてはならないだろう。

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