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追越ノート―「ここ」から世界へ
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プロフィール

TAKESHI

Author:TAKESHI
下田にて

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「 2008年03月 」 の記事一覧
2008.03.28 Fri
「ああ・・・ここだ」―下灘駅(6)



青年、老人









私は入れない

そんな景色でした
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2008.03.28 Fri
「ああ・・・ここだ」―下灘駅(5)



もう・・・何も云うことはない

そんな景色って、あるんだね



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2008.03.28 Fri
「ああ・・・ここだ」―下灘駅(4)



おーい!

ゆっくりいきましょう

次の汽車まで、あと2時間たっぷりありますから

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2008.03.28 Fri
「ああ・・・ここだ」―下灘駅(3)



雨の下灘駅、なんか素敵でした

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2008.03.28 Fri
「ああ・・・ここだ」―下灘駅(2)



海が私を迎えてくれた

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2008.03.28 Fri
「ああ・・・ここだ」―下灘駅(1)



ワンマン列車でコトコト・・・

気づいたらそこは、外子線の下灘駅でした


※下灘駅=日本一海に近い駅

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2008.03.26 Wed
アメリカの匂い―佐世保



佐世保出身の村上龍は、同地についてのエッセイで次のように述べている。

「橋(佐世保橋)の向こうの洋風な建物郡によって、景色は、しゃれた、外国みたいなものになる。建物は、米海軍の両替所や、高官の宿舎、学校、映画館、などである」(〈街の眺め〉「群像」 1978)

このエッセイから30年たった今、広い佐世保橋の向こうに、このような景色は広がっていなかったし、アメリカの匂いも別にしなかった。

佐世保橋を向こうにわたると、米海軍の基地がある。そこをぐるぐる回りながら、私は一眼レフで写真をバシバシ撮っていた。すると、高台の入り口から、「Hey You ! Come On !!!」と大声で云われ、行くと米兵が英語で怒りをあらわにしながらガンガンしゃべってきた。カメラをしきりに指差す米兵。結局、基地の写真はその場ですべて消去させられた。ちょっと怖かった。

そのあと、基地の近くにある「Log Kit」 というバーガー屋に入った。そうとう有名らしく、階段には有名人の写真がビッシリと貼ってあった。「佐世保バーガー」を注文した。なんと1時間待ちであった。店の外には沢山の車があった。ハンバーガーで1時間待ちしたのは初めてであった。

結果、とても満足のいくバーガーだった。巨大で、トマトも肉も、レタスも、ちっともケチっていなく、ケチャップとマスタードがいっぱいで、さいこーであった。

寿司なんかよりよっぽど美味い。

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2008.03.25 Tue
大学院の修了式(2)



もういっちょ。

もっと高く!

この写真は傑作。

コンテストに出そうかな。

「フィナーレ!」または「旅立ち」または「門出」または「グッド・ウィル・ハンティング」っていう題で。

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2008.03.25 Tue
大学院の修了式(1)



きょう、卒業式&修了式があった。

すると、こうなるわけです。

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2008.03.25 Tue
道後の湯と秋山真之の街



3月19日、私は伊予の松山にいた。大学時代からお世話になっている友人宅に再びお世話になった。松山、と聞くと私はこの家族を思い出す。当地に到るまでに私は、すでに佐世保、長崎、尾道、瀬戸内海の島々などをめぐってきていた。

そして道後温泉、いつもの神ノ湯に入って「坊ちゃん」の風情を快く味わい、湯からあがってコーヒー牛乳を2本飲み干した。

素敵なお父さんとお母さんがいて、夕食時には色々な話に花が咲いた。あまりに心地よい食事と会話だったので、「ぼく、お酒あまり飲めないんですよ」と云ってエビスの大缶1本とアサヒを2缶のみ干し、「これ、長崎のお土産です」と云ってさし上げた饅頭の半分以上を自分で食ってしまったが、気付いた時にはもう床に入る寸前で遅かった。

坂の上の雲ミュージアムというのが新しくできていて、チンチン電車で大街道駅下車のところにあるのだが、館内は予想を大きく違えて展示物がほとんどなく、安藤忠雄の設計というのが唯一のウリのように見えた。ただ、秋山好古がフランス政府から頂戴した勲章は注目に値する。

翌朝、旅立ちの日は晴れた。お母さまからイヨカンを沢山いただき、妹さんと一緒に秋山兄弟生誕地と松山城をめぐった。秋山兄弟生誕地は人でにぎわい、国旗がたなびき、茶会が催されていた。きくと、3月20日のその日が秋山真之さんの誕生日、しかも生誕140周年であった。またまた私は千載一遇の出会いに恵まれた。いやいや、妹さんのおかげであろう。

秋山真之という人物に対し、私は特別な思い入れがある。ひとことに申せば、彼は日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日本を勝利に導いた「功労者」、となるだろう。日本海海戦の日本側の作戦は、すべて彼が考えたとされる。彼は海軍の参謀に就く以前から、アメリカに留学するなどして、書物を通じて世界中の海戦、歴史上の海戦のすべてに精通していたという。当時、世界最強の海軍を持っていたのは大英帝国(イギリス)であった。彼らの戦い方も真之はすべて把握していた。

しかし、世界中すべての海戦法を知り尽くした秋山真之が、最終的に日本海海戦で実際に使った戦法は自国の海賊の戦法であった。村上水軍―私の先祖である。七段構えの戦法、そして丁字戦法。その詳細は司馬遼太郎の『坂の上の雲』を参照されたいが、真之が用いた日本古来の海賊の戦法は、当時の世界の国々にとって未知で驚愕すべきそれとなったのである。丁字戦法は、のちに敵前大回頭やトーゴー・ターンと呼ばれ一躍有名になった。やったのは東郷平八郎、用いたのは秋山真之、あみ出したのは村上水軍であった。真之が読んだ村上水軍の『水学書』は、現在因島の村上水軍城に展示されている。

そうした個人的な思い入れのある秋山真之さんの誕生日が偶然にもその日で、真之氏のお孫さんが当地にいらっしゃっていた。お会いした。信じられないくらいに感無量であった。

来年(2009年)の秋からNHK大河ドラマで『坂の上の雲』を放映予定らしく、主な出演者の写真とサインを記した色紙が展示室に飾ってあった。秋山真之―本木雅弘、秋山好古―阿部寛、東郷平八郎―渡哲也、であるという。

上の写真は、中央が秋山真之氏のお孫さん、後に見えるのが秋山真之氏の銅像である。

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2008.03.25 Tue
フィナーレと旅立ち
Japan-05 048


3月14日、旅立ちの日、23時20分発のムーンライトながらを待つホームには、既に凄まじい数の人が集まっていた。写メールを撮る人や、一眼レフを持ち歩く鉄ちゃん(てっちゃん:鉄道マニア)がごった返していた。ムーンライトながらに先行する列車は、寝台急行列車(東京-大阪間)の「銀河」であった。

最初私は、誰か有名人が来たのかと思った。列車掲示板を写メールする人が沢山いて意味が分からなかった。が、人に聞いて教えてもらった。テレビでも大々的に放映したという(私は知らない)。弁当とおーいお茶をほおばりながら、その光景を一眼レフに何枚も収めた。列車近くにはとてもじゃないが接近できない状態であった。

「銀河」がホームを離れるとき、ホームにいた人たちが一斉に、大きな拍手をしたり、「お疲れ様――!!!」という声が上がった。泣いている人が何人かいた。私も少しジンときてしまった。私が生まれる何年も前から頑張ってきた列車なのだ。日本中からこんなに沢山のファンが集まり、とても華やかなフィナーレであった。銀河が長い旅を終え、そして私が旅立った。

それにしても、こんな千載一遇の一瞬に出会えるなんて、私は運がいいと思った。

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2008.03.24 Mon
A列車で行こう



3月14日(金)、23時20分発大垣行きのムーンライトながらに乗り、翌朝大垣に着いて京都へ行ってニシンそばを食らい、大阪、神戸を経由して岡山できび団子を食らい、快速マリンライナーで高松へ行って讃岐うどんを食らい、尾道を経由して夜10時に広島に行ってお好み焼きを食らい、そのあと徳山駅に着いて夜の12時をまわったので警察署の裏で寝袋を敷いて野宿した。それが1日目である。

翌朝、始発列車に乗って新山口、下関、門司を経由して博多へ行って博多明太子ラーメンを食らい、有田を経由して佐世保に行って佐世保バーガーを食らい、その足で長崎へ行って夜の12時をまわったので線路の脇の駐車場で寝袋を敷いて野宿した。それが2日目である。

翌朝、亀山社中と丸山遊郭を訪れ、長崎ちゃんぽんとトルコライスと五三焼きのカステラ一丁と文明堂総本店のカステラ一丁を食らって復路に入り、博多から門司に向かう途中で人身事故があって1時間30分立ち往生し、新山口駅に着いて夜の12時をまわったので駅員宿舎の駐輪場で寝袋を敷いて野宿した。それが3日目である。

翌朝、始発列車で広島を経由して尾道へ行って林芙美子さんに挨拶して尾道ラーメンを食らい、バスで瀬戸内海のしまなみ街道を行って因島で私の先祖(村上水軍)の墓に挨拶し、大三島で大山祇神社に参詣し、今治を経由して松山へ行って道後温泉に入って湯築城跡で寝袋を敷いて野宿した。それが4日目である。

翌朝、外子線の「日本一海に近い駅」の下灘駅へ行って海と駅と人にたそがれ、松山に戻って坊ちゃん団子を4つ食らってチンチン電車で大街道で下りて坂の上の雲ミュージアムへ行き、道後温泉に入って松山の友人のウチへ行って素敵なお母さんの美味しいご飯をご馳走になってぐっすり眠った。それが5日目である。

翌朝、遅く起きて妹さんと秋山兄弟生誕地と松山城へ行って抹茶パフェを食らい、松山駅で21コ入りの坊ちゃん団子を買って今治へ行き、バスでしまなみ街道を渡って尾道からひたすら東を目指し、坊ちゃん団子の減りは早く、西明石駅に着いて夜の12時をまわったので線路横の駐車場で寝袋を敷いて野宿した。それが6日目である。

翌朝、始発列車で神戸、大阪、京都、岐阜、名古屋、岡崎、掛川、静岡、熱海を経由して小田急線で下田へ行って夜の町を港の方へ歩き、黒船ラーメンを食らい、ペリー銅像のそばの下田公園を少し上に登ったところにある小さな公園の便所の後で寝袋を敷いて野宿した。それが7日目である。

翌朝、下田港のペリー銅像近くで朝焼けを眺めて天下泰平にござ候と実感し、幕末の町並みが残るペリー・ロードをぶらぶらし、開国記念館と足湯と手湯につかり、下田駅からバスに乗って須崎半島にある大学の先生の実家にアポなし訪問して先生の御両親に車で下田の名勝地を案内してもらい、下田を去って伊東、熱海、小田原、横浜、東京を経由してつくばエクスプレスでつくばへ来た。夜の11時をまわっていた。それが8日目である。

青春18きっぷに押されたハンコは全部で7つ、きっぷ一枚と2枚目をちょっと使った。
愛用の一眼レフで撮った写真は5000枚以上。

車中、道中で読んだ本は『コインロッカー・ベイビーズ(上・下)』(村上龍)、『瀬戸内の海賊―村上武吉の戦い』(山内譲)、『幕末―写真の時代』(小沢健志)、『旅の心得』(田口ランディ)、『ポケットに名言を』(寺山修司)。

色んなとこへ鈍行で行って、色んな土地を歩き、色んな人と出逢って、色んな話をした。お土産も沢山もらった。汽車にコトコト揺られて線路の向こうをゆくうちに、停滞した日々の生活で染みついた色んなものが少しずつ精算されてゆくのがわかった。旅はいい。目的地のない旅は最高だ。目的地のない人生も最高だ、というのがこの旅で私が気付いた結論であった。

そうだA列車で行こう
それがだめなら走ってゆこうよ             ―― 寺山修司

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2008.03.14 Fri
線路の向こう
Secluded_district[1]


今夜、旅に出る
西のほう
青春18きっぷ

伊豆、富士、京都、奈良、大阪、神戸、小豆島、高松、半田、池田、高知、中村町、下灘、松山、尾道、広島、下関、門司、博多、佐世保、そして長崎・・・

どこで降りようか
どうしようか

行き先は決まってない
帰りも決まってない

「ああ、ここだ・・・」と思える駅がきっとあるから

このきっぷの意味はたしか
旅に出ると、人は誰でも18才になる
だったっけ

忘れちゃいけないのは
愛用の一眼レフと
高等地図帳


遠くへ行きたいんだ
どこか遠くへ
ずぅっと遠くへ

線路の向こうへ
ひとつ先の駅へ

まだ見ぬ、駅と土地と、そして人へ

ここでないどこかなら
どこへでもいいんだ

本当にどこでもいい

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