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「 2007年11月 」 の記事一覧
2007.11.05 Mon
『ALWAYS-続・三丁目の夕日』


113日(土)の劇場公開初日に、『ALWAYS』を友だちと観にいった。前日にチケットを予約しておいた。シネプレックス・つくば(映画館)に行ったら、チケットを買うのに行列ができていた。


 


オレは「第2弾」や「続」なるものにあまり期待を持っていない。実際のところ、「1作目」が思いもかけずに売れたから勢いに任せて「続き」を作ってみました、というのがほとんどだからだ。そのいい例が、井筒和幸監督の『パッチギ』だ。1作目の内容と完成度には実に感服したが、せっかく劇場に足を運んだ「第2弾」には正直ガッカリした。そのくらい、1作目を「超える」のは名実ともに極めて難しいのである。


 


しかし、この『ALWAYS』の「続」は見事だった。成り行きの「続」ではなく、本当の意味での「続」だったから。舞台も1作目(昭和33年)から4ヶ月後(昭和34年)というわりあいハッキリとした設定であり、「1作目」と「続」の2つをもって1つの『ALWAYS』という作品が完結しているとも云えるだろう。


 


1作目の、ヒロミ(小雪)が“見えない指輪”を電球にかざして見つめるシーンは、映画の珠玉だ。


「つけて」


「その・・・いつか買ってくれる指輪・・・つけてよ」


「・・・きれい」


箱しか買えなかった茶川(吉岡)の“想い”を“見えない指輪”にしたのは、ヒロミの“想い”であった。


 


今回も、「心を打つシーン」がいくつもあった。オレは涙をこらえるのがやっとだったし、まわりの人はほとんどが泣いていた。『ALWAYS』の地味な「よさ」は、出演者たちの演技だけでなく、その情景と音楽にある。「あの頃」の東京の空は、あんなに広かったんだ・・・。「あの頃」の下町の人々は、あんなにふれあって生きていたんだ・・・。オレは昭和30年代を生きてはいないが、「あの頃」を懐かしく思うことができる。それはなぜだろう。そこがこの作品の「素晴らしさ」ではないだろうか。


 


きっと私たち現代の日本人には、いつか生きていた「あの頃」の日本人の「記憶」があるのだ。外国の人が観ても『ALWAYS』は感動する作品であろうが、「日本人」だからこそわかることがある。


 


1作目は、2005年の日本アカデミー賞において13部門中12部門で最優秀賞を獲得した。同時期に公開された『パッチギ』は惨敗した。だが、そんなことはどうだっていい。「賞」なんてのは、いつの時代もただの「飾り」でしかない。「おまけ」にすぎない。本当の評価はそんなところにはない。


 


しかし一方で、井筒監督をはじめとして、「当時を徹底美化して感動させて泣かせる郷愁染みた映画である」「当時の臭いがしない」などとの批判があった。趣向の違いは当然あるだろうし、そういう事実関係についての批判もあってしかるべきだと思う。でも、そういう批判はつまらない。その人の感受性の乏しさを思ってしまう。


 


映画なんてしょせん「ウソ」なのだ。映画だけでなく、小説も舞台もみんな「ウソ」だ。英語の「フィクション」の意味は、「虚構」である。でもオレたちは、そんな「ウソ」に感動し、そんな「ウソ」に涙する。それはなぜか。「真実」だからだ。「事実」が「真実」に高められることで、その作品は「芸術」となる。オレたちは映画や小説や舞台に、「事実」を期待してなんかいない。「事実」は時代とともに変わるが、「真実」はいつまでも(ALWAYS)変わらない。


 


映画とは、真実の嘘なのだから。


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