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2007.11.15 Thu
もう1つの物語


昨夜のAFCチャンピオンズリーグ決勝、浦和レッズVSセバハンの試合は久しぶりに興奮した。


 


UEFAチャンピオンズリーグに比べたらぜんぜん知名度のないAFCチャンピオンズリーグだけど、内容はどうあれそこで「優勝」という結果を出したことは、日本のサッカー界にとって大きな前進につながると思う。実力で勝ち取った、はじめての「世界クラブ・ワールドカップ」の出場権。


 


オレはレッズファンじゃないけれど(セロ・ポルテーニョとボカ・ジュニアーズのファンだ)、あの応援は世界でも一流のクラスに入るんじゃないかな。これは日本代表の応援にも云えることだけれど(あと野球の応援もそうか)、日本のサポーターの応援は外国のチームやサポーターにとってすごく「奇妙」に映ると思う。


 


なぜか。試合中、あんなにも一定のリズムとテンションで四六時中応援するサポーターは日本と韓国のサポーター以外にないから。ヨーロッパのリーグはもちろんのこと、パラグアイやアルゼンチンやメキシコのリーグでは(もちろん他のリーグでも代表の試合でも)、非常に「メリハリのある」応援をする。敵の選手がボールを持つとみんなで「ブー!!!ブー!!!」と叫ぶし、ゴールを決めると「ゴール!!!」とみんなで一斉に叫ぶ。でもそれ以外はほとんど黙っている。時々「イホ・デ・プタ」とかの野次は入れるが、それはいわゆる個人プレーに過ぎない。


 


日本のサポーター(レッズのサポーターも含む)を見ていると、「あんなに試合中ずぅっと『みんなで』叫んでいて、ちゃんと試合観てんのかな・・・!?」ってよく思う。昨夜も思った。でも、それが「日本らしい」応援と云えなくもない。良くも悪くも、あれほど「組織力」があって「均整のとれた」応援は、世界でもかなり珍しい。レッズサポーターと韓国代表の「テー・ハ・ミング」とどっちがすごいだろう???


 


ところで、話は変わるが、きょう(1115日)『RUN―流浪のストライカー、福田健二の闘い』という本が発売された。オレはさっそく有朋堂で買った。著者は、2005年に『Number』で「遺書。」というタイトルで福田健二選手の記事を発表し、第2回雑誌・ネット記事大賞の人物・インタビュー部門賞を受賞した小宮良之さん。


 


「ミスター・レッズ」の福田の解説もいいけれど、オレは「もう1人の福田」の挑戦に今も注目している。はやく怪我から回復されることを心から祈る。


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2007.11.12 Mon
西方見聞録―幻のアルゲ・バム


2000年の夏に、約2ヶ月かけて中国の上海からパキスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イタリアのローマへと、汽車と乗り合いバスを乗り継いで旅をした。シルクロードである。13世紀の昔、マルコ・ポーロはイタリアのヴェネツィアから中国の西安にかけてシルクロードをゆき、後にその旅行記を『東方見聞録』としてまとめあげた。当時の私の旅は、まさにマルコ・ポーロの辿ったのとは逆の道をゆく旅であった。旅先で書き記した日記は、総計50枚以上に及ぶ。したがって、私の旅日記は『西方見聞録』。副題は「マルコ・ポーロを求めて」。これから手元にある旅行記をもとに、私の記憶に残るいくつかの風景を再び旅してみたいと思う。


 


今回は、イラン・イスラム共和国のバムという町。


 


バムはイランの南東部(ケルマーン州)に位置する小さな町である。現在(2007年11月12日)にいたるまでいまだに解放されていない横国大生の中村さん(23)は、このバムで武装集団に誘拐された。バムはパキスタンとの国境に近い町である。アジア横断を目論むバックパッカーは、確実と云っていいほどイランを経由しなければならない。中村さんもアジア横断の最中であったという(無事の解放を心より祈る)。


 


2000年7月24日(月)、私はバスでバムに到着した。その日の私は(全日程を通してそうであるが・・・)強行日程であった。パキスタンのタフタンという町(どこだ???地図に載ってないぞ)からイランへ国境を越えるとそこはミルジャワという町であった。パキスタンからイランへ国境越えする際のイラン側のイミグレでは、アフガンの人たちが大行列を作っていて一向に進む気配がなかった。最前列を見てみると、そこではイランの警察がアフガン人の持ち物の「すべて」をチェックしていた。しかも、警察の作業はひどく乱暴でアフガン人に対する軽蔑に満ちていた。アフガン人には、日本人にそっくりな人が何人もいた。聞くところによると、アフガニスタンからイランへ向けて日々かなりの量の麻薬が密輸されているという。イランのイミグレの人は、アフガン人を風紀の乱れの元凶として目の仇にしている様子だった。私は日本人ということで、その列には並ばずに、すぐに国境を越えることができた。「Japanese? Welcome to Iran」と云ってそのイミグレの人は、イランへ通ずる扉を親切に開けてくれたのだった。アフガンの人たちを除くと、そのイミグレに外国人は私だけだった。それにしたって、この「人種」差別は一体何なんだ。アフガン人の一部は日本人に非常に似ているため、私を見るとイランの警察は初め高圧的な態度にでてくる。しかし、日本のパスポート(赤いやつ)を見せると、その態度は一変し今度は恭しい態度で私を迎える。ヒドイもんだと思った。たかが手帳ひとつで人に対する態度をコロコロ変えるなよってさ。


 


ミルジャワからトラックの荷台(タクシー)にのって、永延とつづく地平線上の土獏をひたすらゆく。イランに入って、道路が舗装されているのでビックリした。パキスタンから国境を隔てて風景は一変した。イランの気候は極度に乾燥していて、日中は40℃を超える。陽射しは、まるで槍のように体を突き刺してくる。しばらくすると、バルチスタン州のザへダンという比較的大きな町に到着した。今度は乗り合いバスに乗り換えだ。バスの待合所では、ラリっている大人や子どもが何人か話しかけてきた。この町はとても雑然としていて、心なしかラリっている人が多いように見えた。ザヘダンからバスに乗って、一気にバムへと向かった。窓際なので陽射しが顔面に突き刺さる。面白いのは、飲み水のサービスが定期的にあることだ。イラン人にとってもこの暑さは堪えるらしい。


 


夜にバムに着いた。度重なる強行日程とイランの突き刺すような乾燥した暑さのために、体調がすっかり悪くなっていた。実は、イランに来るまでに、既に2回吐いた。そして3回目を、バムのホテルで吐いた。ゲリぴーにもなった。熱が出た。しかし、イランは観光業が発展していないため、路上の店屋がほとんどなく、あったとしてもすごく不味い(ちなみにコーラはない。そのかわりに「ザムザム」というコーラそっくりの飲み物がある)。にっちもさっちも行かない状態。しかし!次の日何を思ったか、そんなフラフラの状態で、アルゲ・バム遺跡に行った。ムチャをするのが大好きだから。


 


アルゲ・バムは、世界遺産にも登録されている(私が行った当時は登録されていなかった)古代の要塞都市の遺跡。百科事典的な知識を云うと、この遺跡はササン朝ペルシア期からサファヴィー朝期(16-17世紀)にかけて完成された都市であったが、アフガン人(パシトゥーン人)の攻撃があった1722年以降に放棄され、廃墟となった。「死の町」と呼ばれている。


 


この遺跡のすごいのは、土でできた美しい町並みと城塞がそのまんま(!)整然と残っているところ。私が行ったときは、観光客なんて1人か2人くらいしかいなかった。「観光客に忘れ去られた町」だった。そこが一番スゴイ!遺跡の中には本当にだんーれもいないもんだから、風の音が良く聞こえたし、空は真っ青だし、ぐるぐるぐるぐる廻っているうちに迷ってしまって(かなり大きな廃墟だった)、意識もかなり朦朧としていた。なんか昨日までそこに沢山の人が住んでいたのに、突然跡形もなく消えてしまったような感じ。正直云って、信じられない。限りなくミステリー・ワールドだった。


 


ところが、2003年にちょうどバムを直撃する大地震が起こって、この遺跡はそのほとんどがバラバラに崩れてしまったとか。地震が起こった後に、この遺跡がやっと注目され(遅いよ・・・)、世界遺産に登録され(遅いよ・・・)、そして現在は復旧されているとか(それってレプリカ!?)。


 


大地震の後にアルゲ・バムに行った人は是非その情報を教えて欲しい。でもきっと、世界遺産に登録されちゃったから、いまは観光客でいっぱいだと思う。その上、いまは政治的な問題で治安がかなり悪化しているらしく、外務省の危険情報ではパキスタン国境近辺ののバルチスタン州とバムのあるケルマーン州には退避勧告(危険度5)が発令されている。つまり、旅行目的ではビザが下りにくい状態。この勧告がいつ解けるかは未定。邦人の誘拐事件があったし、しばらくは難しいと思われる。


 


あの時のバムは、もう二度と見ることはできない。


すべてが変わってしまった。


あの時行っておいてよかった。


 


きっとそう思える場所が、これからどんどん増えてくると思う。


グローバル化も世界遺産もその進行はもう止められないのだから。


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2007.11.05 Mon
『ALWAYS-続・三丁目の夕日』


113日(土)の劇場公開初日に、『ALWAYS』を友だちと観にいった。前日にチケットを予約しておいた。シネプレックス・つくば(映画館)に行ったら、チケットを買うのに行列ができていた。


 


オレは「第2弾」や「続」なるものにあまり期待を持っていない。実際のところ、「1作目」が思いもかけずに売れたから勢いに任せて「続き」を作ってみました、というのがほとんどだからだ。そのいい例が、井筒和幸監督の『パッチギ』だ。1作目の内容と完成度には実に感服したが、せっかく劇場に足を運んだ「第2弾」には正直ガッカリした。そのくらい、1作目を「超える」のは名実ともに極めて難しいのである。


 


しかし、この『ALWAYS』の「続」は見事だった。成り行きの「続」ではなく、本当の意味での「続」だったから。舞台も1作目(昭和33年)から4ヶ月後(昭和34年)というわりあいハッキリとした設定であり、「1作目」と「続」の2つをもって1つの『ALWAYS』という作品が完結しているとも云えるだろう。


 


1作目の、ヒロミ(小雪)が“見えない指輪”を電球にかざして見つめるシーンは、映画の珠玉だ。


「つけて」


「その・・・いつか買ってくれる指輪・・・つけてよ」


「・・・きれい」


箱しか買えなかった茶川(吉岡)の“想い”を“見えない指輪”にしたのは、ヒロミの“想い”であった。


 


今回も、「心を打つシーン」がいくつもあった。オレは涙をこらえるのがやっとだったし、まわりの人はほとんどが泣いていた。『ALWAYS』の地味な「よさ」は、出演者たちの演技だけでなく、その情景と音楽にある。「あの頃」の東京の空は、あんなに広かったんだ・・・。「あの頃」の下町の人々は、あんなにふれあって生きていたんだ・・・。オレは昭和30年代を生きてはいないが、「あの頃」を懐かしく思うことができる。それはなぜだろう。そこがこの作品の「素晴らしさ」ではないだろうか。


 


きっと私たち現代の日本人には、いつか生きていた「あの頃」の日本人の「記憶」があるのだ。外国の人が観ても『ALWAYS』は感動する作品であろうが、「日本人」だからこそわかることがある。


 


1作目は、2005年の日本アカデミー賞において13部門中12部門で最優秀賞を獲得した。同時期に公開された『パッチギ』は惨敗した。だが、そんなことはどうだっていい。「賞」なんてのは、いつの時代もただの「飾り」でしかない。「おまけ」にすぎない。本当の評価はそんなところにはない。


 


しかし一方で、井筒監督をはじめとして、「当時を徹底美化して感動させて泣かせる郷愁染みた映画である」「当時の臭いがしない」などとの批判があった。趣向の違いは当然あるだろうし、そういう事実関係についての批判もあってしかるべきだと思う。でも、そういう批判はつまらない。その人の感受性の乏しさを思ってしまう。


 


映画なんてしょせん「ウソ」なのだ。映画だけでなく、小説も舞台もみんな「ウソ」だ。英語の「フィクション」の意味は、「虚構」である。でもオレたちは、そんな「ウソ」に感動し、そんな「ウソ」に涙する。それはなぜか。「真実」だからだ。「事実」が「真実」に高められることで、その作品は「芸術」となる。オレたちは映画や小説や舞台に、「事実」を期待してなんかいない。「事実」は時代とともに変わるが、「真実」はいつまでも(ALWAYS)変わらない。


 


映画とは、真実の嘘なのだから。


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