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追越ノート―「ここ」から世界へ
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「 2007年10月 」 の記事一覧
2007.10.30 Tue
モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」


きのう(10月29日)、またサントリーホールでクラシック・コンサートを聴いてきた。


 



【N響ロマンティック・コンサート】


ヴィヴァルディ: ヴァイオリン協奏曲『四季』


モーツァルト: 交響曲第41番 ハ長調 K551 「ジュピター」


 


ヴァイオリン(ソロ・コンサートマスター): 堀正文


指揮: サー・ネヴィル・マリナー


管弦楽: NHK交響楽団



 


ヴィヴァルディの『四季』は、ヴァイオリンのソロのパートが多分に入る。そのソロパートを担当したのが堀正文。彼は日本のみならず、ドイツを中心にヨーロッパ各国のオケで活躍してきたヴァイオリニストだ。


 


指揮はネヴィル・マリナー。実はこの人、映画『アマデウス』のサウンド・トラックの指揮および音楽監督を務めた人で、当時3部門でグラミー賞を獲得した。フィルハーモニア管弦楽団(ロンドン)やシュツットガルト放送交響楽団首席指揮者を始めとして、その他にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など数多くのオーケストラに客演した。


 


と、そういった教科書的な知識は実際の演奏とは「まったく」関係ないのだが、一応記しておく。 ちなみに、オレは両者ともまったく知らなかった。でも、『アマデウス』は大好きな映画で、これまでに何回も観た。もともと戯曲として作られたこの『アマデウス』は、モーツァルトを主人公とする作品である。彼の正式名称は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。


 


さて、実際の演奏であるが、「まあまあ」良かった。曲を綺麗にまとめている。つまり、演奏が整っている。でも、ネガティブな云い方をすれば、「ただそれだけ」ということになってしまう。どうしても、この前のバレンボイムの演奏と比べてしまう。整った演奏から「はみ出る」何かが欲しい、と云いたいが、それは贅沢な要求なのかもしれない。


 


モーツァルトの「ジュピター」は、クラシックすべての交響曲の中で、オレの最も好きな曲の一つだ。高校から大学にかけて、オレはずっと「ジュピター」を追っていた。とくに第1楽章の出だしが最高だ。この出だしは、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」にも影響を与えている。いま現在、オレは「ジュピター」のCDは5枚持っているが、これまでに聴いた「ジュピター」の数は10以上に及ぶ。「ジュピター」だけは絶対に譲れない。中でも選りすぐりの演奏(CD)は以下の3つ。


 


ブルーノ・ワルター:コロンビア交響楽団


ブルーノ・ワルター:ニューヨーク・フィルハーモニック 


カール・ベーム:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


 


レナード・バーンスタインとウィーン・フィルの「ジュピター」のCDが、たしかグラモフォン社のBESTに選ばれていた。しかし、オレは好きじゃない。バーンスタインは、マーラーを振らせると素晴らしいが、モーツァルトはダメだ。彼の演奏の欠点は、リズムが全体的にゆっくり「すぎる」という点にある。それに比べて、ワルターの「ジュピター」は迫力があって荘厳だ。しかし、録音の質が悪い、というのが大きな欠点。


 


一方、ベームのCDは、デジタル録音だけあって、音が洗練されている。曲の「出だし」は、ワルターの方が断然だ。しかし、ベームのスコアに対する精密さ、そして何といってもこのウィーン・フィルの「軽薄な」演奏とテンポの速さがモーツァルトの美しさを体現している。さすが「ウィーン気質」と呼ばれるだけある。ベルリン・フィルにはきっとこんな演奏は無理だろう。


 


モーツァルトの曲に必要なのは、リズムの「軽さ」と「速さ」と、そして「遊び心」である。と、オレは思う。モーツァルトは、ベートーヴェンのように真剣に考え抜いて曲をつくったのではない。もしそうだとしたら、あんなにも沢山の曲を作ることはできない。交響曲だけをとってみても、ベートーヴェンは生涯を通じて9曲しか残していないのに対し、モーツァルトは41曲も残している。ベートーヴェンの作曲数が少ないのではなく、モーツァルトの曲数が異常なだけである。


 


モーツァルトは、「遊び心」を持って、極めて「軽薄に」、さらに「素早く」一つ一つの作品を作り上げたに違いない。交響曲第39番、40番、41番の俗に云う「三部作」は、たったの6週間で完成させた。「天才」と云われる所以である。ちなみに、この交響曲第41番の「ジュピター」は、ベートーヴェンの「運命」(交響曲第5番)と同様、標題音楽ではない。


 


「ジュピター」の演奏が終わり、サントリー・ホールの聴衆の拍手が鳴り止まなかったので、指揮者のマリナーは聴衆のアンコールに応えた。その曲の出だしを聴いた瞬間、オレは胸の内で小躍りした。モーツァルトの「ディヴェルテメント ニ長調 K136」の第3楽章。作曲者の「遊び心」が十分に伺える作品だ。そしてこの、軽薄で、なのに得も云えぬ美しさを持った旋律・・・!これぞモーツァルトの真骨頂。


 


料理を食べ終わったあと、予期せずにテーブルに出された、良質の美味しいデザートであった。


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2007.10.09 Tue
私のエルネスト


エルネスト・チェ・ゲバラが亡くなってから、きょう(10月9日)で40年目を迎えた。キューバやベネズエラ、ボリビアなどの中南米各国では、彼の追悼行事が行なわれた。フィデル・カストロ議長は、チェの遺骨が安置されているサンタクララで追悼文を読み上げた。


 


私がエルネストを始めて知ったのは、2002年の10月のことである。当時私は、東京の広尾で協力隊の派遣前訓練を受けていた。9月から始まった訓練も佳境に入り、私は(いまは亡き)広尾訓練所の図書館で、前隊員の報告書をあさったり、南米に関する図書を探したりしていた。そんな折、書架にあった一冊の本に遭遇した。ページをめくると、そこには、西洋建築の2階のバルコニーで仰向けに横たわり、頭に手を組んで宙を見つめている青年の姿の写真があった。「ジェームス・ディーンみたいだな・・・」と私はその瞬間思った。


 


『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』と表紙にある。巻頭には、バイクにまたがる写真(上の写真)や、サングラスをかけて自転車にまたがる彼の写真などがあった。この本は大学の親友のアルベルト・グラナードとバイクと歩きとヒッチハイクと船で南米を旅したときのエルネストの旅行記であるが、彼はそれ以前に自転車でアルゼンチンのサンタフェ、北コルドバ、メンドーサなどを旅している。ところで私も、協力隊の訓練が始まるまでに、自転車による四国八十八ヶ所巡礼(大学2年時)と、日本縦断を達成していた(大学2年時+協力隊訓練開始前)。大学時代、シルクロードをはじめとしてアジア・アフリカを旅してまわったが、それと同時に私は「チャリダー」でもあったのだ。だから、タイヤを上半身にぶら下げて自転車にまたがる彼の姿は、その時の私にすごく印象的だった。「南米にもこんなことをする奴がいるのか」と、同じチャリダーとしての親近感を覚えたのである。でも、その時はただそれだけだった。


 


私がエルネストを本当の意味で「知る」ことになったのは、南米のパラグアイにおいてだった。当時私は、パラグアイ北部(チャコ地方)のマリスカル・エスティガリビア市の市役所を所属先として、同市や近くの先住民の村(サンタテレシータ村)で活動を行なっていた。その時、市役所の広報部課長をしていたベルナルド・コロネルと知り合った。彼とは卓球をしたりピンポンをしたり、毎晩のごとく一緒にビール飲んだり、チャコ地方の色んな所に連れていってもらったりした。そして、毎日毎晩お互いくたびれるくらいに議論をした。私は彼からたくさんのことを学んだ。彼を通じてパラグアイや南米の「リアリティ」を知ることができた。それらは絶対に教科書には載っていない生きた情報であった。


 


彼は、パラグアイ人にはめずらしく(エクアドルの出張大学で)人類学を学んでいた。彼は「チェ」を尊敬していた。彼は、市役所の仕事とは別に、個人的にチャコ地方の先住民を援助する活動をしていた。外部の機関から援助を引っ張ってきたり、先住民の村同士の組織化を指導したりしていた。しかし、その試みはすべて失敗に終わる。市役所を追い出され、市議会選に立候補するも敗れ、いまは首都のアスンシオンで短期の調査の仕事などをしている。彼はいつか云っていた。「この国では、不正を訴えたら、その訴えた人が刑務所に行くハメになる。だから、みんな不正を見つけても黙って見過ごして訴えようとしない」と。不当な理由によって突然市役所を追放された彼は、その後その件を裁判所に起訴し、そして最終的に勝訴を得た。行政に携わる周囲の人たちにとって、「本当のこと」を新聞に書く彼はじつに煙たい存在だったのである。


 


話は変わるが、協力隊活動も折り返し地点を回った頃、アスンシオンの映画館で『モーターサイクル・ダイアリーズ』という映画が上映された。私はそれを友だちと一緒に観に行って大きな衝撃を受け、その後もアスンシオンに上がる度に映画館に足を運んだ。計3回観た。この作品を「南米で」観ることができたことに大きな意味があると思っている。「ぼくはもう、ぼくじゃない。少なくとも、旅する前のぼくとはすっかり変わってしまったのだ」という主人公の語りとともにエンディングの音楽が始まり、エンドロールとともにエルネストとグラナードの旅の写真が何枚も映し出される。あの時に映画館でおぼえた感情は、いまも忘れることができない。


 


カラカス(ベネズエラ)でグラナードと別れたエルネストは、母国のアルゼンチンに戻り、大学の卒業試験(医学)をパスして、カラカスのハンセン病療養所で働くグラナードを求めて再び旅に出る。といったくだりは、以前にこのブログの「メリダの年代記」というところで書いたので省略するが、彼は放浪の途中、メキシコでフィデル・カストロと運命的な出会いを果たす。エルネスト、27歳の時であった。そして私も27歳の時(去年)、メキシコのメリダにいた(留学中)。自分と同年齢の時に、エルネストは同じメキシコの地にいてしかもメリダも訪れていた、という事実に私は多少の感慨をおぼえた。かの地メリダで。


 


フィデルと出会ってエルネストから「チェ」となった彼は、キューバ革命(1959年1月)を起こし、その後も国づくりのために奔走した。じつは、チェを団長とする親善使節団がアジア、アフリカ諸国を歴訪した際、彼は日本にも訪れている(1959年7月)。都庁に赴いて東知事から『都民の鍵』を受け取り、池田勇人通産相(当時)と通商協定についての話をし、靖国神社の参拝を断って広島の原爆慰霊碑を訪れた。「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目に合わされて、腹が立たないのか」と云ったという。しかし、当時チェに会った日本の政治家や官僚は、キューバの使節団など重要視していなかったため、ほとんどの人が彼のことをよく覚えていなかった。そんなこともあって、現在においてもチェの日本訪問はあまり知られていない。


 


それから彼がどのような人生を辿ったのかについては、ここに詳しく記すまでもない。彼がカストロに宛てた「別れの手紙」は文学の極みである。しかし、そういったことは彼について書かれた本を読めば容易にわかることである。最終的に彼は、工業相、国立銀行総裁、経済使節団長、軍司令官(コマンダンテ)といった当時の彼の役職と肩書きをすべて捨て、世界同時多発革命を目指してアフリカのコンゴへと向かった。その後極秘の内にキューバに戻り、すぐに今度はボリビアへと旅立った。そしてボリビアでゲリラ闘争をつづける中、イゲラ村で政府軍に捕まり、CIAの指示によって殺害された。1967年10月9日のことである。


 


私は彼の人生を全面的に賛美する者ではない。彼の考え方や実際の行動の一部は、たとえ時代的背景や制約を配慮に入れたとしても、私にとって到底受けいれることのできないものである。しかし、それを認めた上で、そうではあっても、彼の人生は依然として魅力的である。


 


キューバの革命博物館を訪れたときにも同じようなことを思った。彼の意志と行動が、南米をはじめとする「第三世界」の「貧しい人」の魂をどれだけ救ってきたか、あるいは現在も救っていることか。それは、実際に南米を旅すればよくわかる。彼の精神は現代においても決して死んではいない。2005年にボリビアで史上初の先住民出身の大統領(エボ・モラレス)が誕生し、ベネズエラのチャベス大統領はカストロ議長とともに反米・反グローバリズムを掲げ、彼らはブラジル左派大統領のルーラとも結びつきを強くしている。そしてパラグアイでは、来年の大統領選挙に向けて、元聖職者のフェルナンド・ルーゴが名乗りをあげている。南米にはいま、確かな社会主義的な変革の波が押し寄せているのである。


 


きょう、朝起きて大学に来て、まず親友のベルナルドにメールを送った。「チェ」を私に教えてくれた彼に。いまも政治的な活動をつづける彼に。「チェ」よりも「エルネスト」に興味を持った私から。


 


エルネスト・チェ・ゲバラは、キューバの医学生を対象とした演説の最後に、シモン・ボリバルのコトバを引用して次のように云った。


 


「口で云う前に、行動で示せ」


 


私のエルネストはまだ生きている。


そう思いたい。


 


【参考文献】


エルネスト・ゲバラ 1997 『モーターサイクル南米旅行日記』 現代企画社。


Ernest Che Guevara 2001 Otra Vez. Barcelona: Ediciones B Grupo Zeta.


Heart, M. & Negri, A. 2000 Empire. London: Harvard University Press.


池上善彦(編) 『現代思想 総特集チェ・ゲバラ』10月臨時増刊号 第32巻第13号 青土社。


三好徹 2001 『チェ・ゲバラ伝』 原書房。


太田昌国 2000 『ゲバラを脱神話化する』 現代企画社。


横堀洋一(編) 2005 『ゲバラ 青春と革命』 作品社。


ウォルター・サレス監督 2004 『モーターサイクル・ダイアリーズ』(DVD) アミューズソフトエンターテイメント。


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2007.10.04 Thu
ベルリン・シュターツカペレ


きのう(10月3日)の夜、サントリーホールで公演された、ベルリン・シュターツカペレのコンサートに行ってきた。今年の8月に座席を予約をしておいた念願のコンサートだった。


 


ベルリン・シュターツカペレ、別名、ベルリン国立歌劇場管弦楽団は、1流のオーケストラではない。


超1流のオーケストラである。


 


しかし、何といっても注目に値するのは、指揮者の


ダニエル・バレンボイム 。


 


彼は、1942年ブエノスアイレス(アルゼンチン)生まれのユダヤ人である。そしてなんと、あの『オリエンタリズム』を執筆したエドワード・サイードと親友であった(共著あり)。バレンボイムは、そのカリスマ性を備えた指揮ぶりによって、かつて「帝王」と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンの後継者であると言われている。いま、世界で最も注目を浴びる指揮者の1人である。


 


お題目は、


 


リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」


ベートーヴェン:交響曲第5番 『運命』


 


夜7:00開演。会場はもちろん満席。オレは22000円のS席の9列目6番の席に座った。ステージから6メートルほど離れたやや左寄りの席で、あらゆる面でオーケストラの鑑賞に最も適した席である。オレはただ、最高の音楽を最高の席で聴きたいだけだ。(ちなみにサイトウ・キネンのチケットは、A席25000円で落札した)。


 


そして演奏・・・。


 


『ドン・キホーテ』は、ヴィオラの独奏が多い。そのヴィオラ独奏者の演奏が、これまた聴衆の心に強く鋭く響いた。そして、独奏している時のその表情のなんと美しいことか!曲が終わって、拍手の嵐。ヴィオラ独奏者はオレたち聴衆に向かって、「どうだ、みたか」と言わんばかりの堂々とした態度で慎やかに礼をした。彼はその後、ステージを去ってはまた戻ってくるの繰り返しで、計4回もステージの中心に引っ張り出されて挨拶させられることになった。聴衆が、拍手の称賛の嵐を止めないからである。オレは、オーケストラ・コンサートのこういうカスタムが好きだ。


 


そして、20分休憩のあとの、ベートーヴェン:交響曲第5番。ちなみに、これは標題音楽ではない。つまり、ベートーヴェンは『運命』という標題に基づいてこの曲を作ったのではない。この曲が完成した後、弟子のシントラーに「冒頭の4音は何ですか」と聞かれたところ、ベートーヴェンは「運命はこのように扉を叩く」と答えたことから、日本では彼の交響曲第5番を『運命』と呼ぶことになった。ちなみに、日本以外では、『運命』という標題はほとんど用いられない。


 


そして、バレンボイムの『運命』は突然に始まった・・・。彼の指揮は、繊細でしなやか且つ大胆で、ヒトコトで言うと「威風堂々」である。彼は指揮棒を下に向けて(つまりオケを「見下す」感じで)持つことが多く、そしてそれを蛇のように操る。白い棒がやわらかくゆっくりと宙を漂っていたかと思うと、突然ビシッっときたりする。姿勢正しく鋭く指揮していたかと思うと、急に屈み腰になってからだ全体でオケの音を引き出す。そして、何度もオケを指差して指示する。あるいは目の前の第1バイオリンの顔の真近に顔をガッと持ってきたりして、オケを挑発する。やばい・・・。その挑発的で大胆で正確な彼の指揮に対して、オケも必死に全力で素晴らしい音を出さなくてはならない。いや、出さざるを得ない。見ているだけで、聴衆も彼の指揮に圧倒され、そして呑み込まれてしまう。まさにカリスマだ。


 


ベートーヴェン:交響曲第5番の第一楽章がこんなにも早く終わってしまうことは、オレのこれまでにはなかった。それは、彼の演奏が速いとかそういうことを言っているのではない。あまりにも心に強く迫ってきてかつ美しいため、時が経つのを忘れてしまったからだと思う。でもわからない。こんな体験は初めてだった。


 


そして第4楽章・・・。この演奏が永遠に終わらないことを心から願った。ずっと聴いていたいと思った。だが、どんなに美しい音楽も、残酷なことにいつかはフィナーレを迎えなくてはならない。「ファッ!」というバレンボイムの掛け声とともに、ズワーン・・・!とフィナーレを迎えた。オレの胸中は、過剰に満たされた感と寂寞感との矛盾した感情に満ち溢れていた。そう、それは文字通り、「溢れていた」という表現が似つかわしい。10万円を払ってでも彼の演奏は聴く価値がある、と思った。


 


ベートーヴェンは、ドイツ出身の作曲家だ。そして、ベルリン・シュターツカペレはドイツを代表するオーケストラである。この日オレが思ったのは、ベートーヴェンの曲はその国のオーケストラの演奏に限る、ということだ。そしてもちろん、モーツァルトは、オーストリアのオケということに。


 


悪いが、こんなのに、日本のオーケストラは勝てっこない。というより、まったく太刀打ちできない。彼らドイツのオーケストラには、自国の作曲家の作った曲を自分たちが演奏するという自負がある。ようにオレには見えた。それは、日本のオーケストラにとって、圧倒的かつ絶対的な壁だ。こんなのに比べたら、オザワとサイトウ・キネンの『幻想交響曲』は別格であるとしても、コバケンと日本フィルのベートーヴェンなんて、まるで中学校のオーケストラコンクールのようなものである。


 


この日、バレンボイムとベルリン・シュターツカペレの演奏を聴きにいった人は、これまでの音楽に対する考え方を改めねばならなかったろう。いな、改めずにはいられなかっただろう。それはつまり、


 


音楽とは格闘技である


 


ということだ。第1バイオリンと第2バイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハープ、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、ティンパニと、それぞれまったく違う個性を持つ楽器と奏者が、お互いの音を激しくぶつけ合うことから音楽は始まる。しかし、それだけではただのエネルギーの混沌にすぎない。しかし、実はこの音のエネルギーの混沌が最も大事なのである。日本のオケは、このオケの「ぶつかり合い」が弱い。


 


そしてここで、オケのぶつかり合う音と指揮者の要求とが、今度はもっと激しくぶつかり合う。そして最終的には、この音のエネルギーの混沌を、指揮者がその力量でもってまとめ上げ、昇華させる。その一瞬が音楽だ。オケとオケが喧嘩し、オケと指揮者が喧嘩し、そして今度は、そこに出した音でオケと聴衆が喧嘩する。そこがオーケストラの醍醐味だ。まったなしの1本勝負である。


 


第1バイオリンと第2バイオリンなんて、腰を浮かして弦を引く姿がいったい何回見られたことか。それだけのの入れようなのだ。しかし、巨大な音のエネルギーの混沌は、偉大な指揮者でなければ、上手く昇華させることはできない。一流のオケが出す音を、一流の指揮者が振ってこそ、はじめて一流の音楽となるのである。まあ、バレンボイムとベルリン・シュターツカペレは超一流だが。


 


しかし、こういったことはいまの日本のオケにはできない。


残念ながら、「1.5流」の域を出るのは、並大抵のことではない。


 


11月にはパリ管弦楽団が来日する。同じくサントリーホールでのコンサートである。次はそれを聴きに行こうかな。お題目は、フランス人のベルリオーズが作曲した『幻想交響曲』だ。


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