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追越ノート―「ここ」から世界へ
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プロフィール

TAKESHI

Author:TAKESHI
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「 2007年01月 」 の記事一覧
2007.01.31 Wed
★ちょっとブレイク★


アンデス山脈上空です。どお!?東京の通勤ラッシュの光景によく似ているでしょ?!


ちょうど3年前、ここを陸路で国境越えしました。チリのサンティアゴからアルゼンチンのメンドゥーサまで。イミグレは山脈のてっぺんにありました。世界を食い尽くしてやろうと決心しました。


たったいま、マリスカル・ロペス・ショッピングの「ROMMY」というスタイリッシュな美容院で髪をサッパリしてきました。いつもここでお世話になっています。店の人もみんな知り合いです。


なんといっても、「シャンプー」が気持ちいいです。ゆったりとしたイスに仰向けになって、美しい女の人がやわらかくそしてやさしく、マッサージをしながらシャンプーをしてくれます。シャンプーが終わってなめらかに髪を洗うと、つぎはリンス。またマッサージを加えながらゆっくりと・・・ゆっくりと・・・それがおわるとこんどはクリームです。


耳のところから首のあたりまで彼女の手がエロチックに伸びてきます。ぼくは女の人に髪をさわられるのが好きです。とくに美しい女の人に髪をもてあそばれるのは快感です。


そしていまから、「ティグレ」という韓国式マッサージ店にいってきます。サウナがあり、風呂があり、垢すりもあり、そしてオイルマッサージがあります。


そうそう、このアンデス山脈は、あのサンテグ・ジュペリも郵便飛行で訪れています。たしかそこで大嵐にあいました(『人間の土地』参照のこと)。そして、メンドゥーサは植村直巳が南米最高峰のアコンカグアを登山する基点としていたところです。ではまた。


 旅よ 


夢のような約束にみちた 魔法の小箱よ 


お前はもう お前の宝を 


無垢のまま 与えてはくれない                          


                         (クロード・レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』より)



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2007.01.30 Tue
王者の踊り


スタジアム(Defensores del Chaco)は結構空席がめだった。U-20南米選手権は、フル代表ほどは盛り上がらないらしい。しかしそれでも、今回プレーする若い選手たちが、次世代の試金石であることには間違いない。それに昨日は、「最高の瞬間」が盛りだくさんだった。


 


第一試合のパラグアイVSチリは、夕方の5時30分にキックオフした。チリもオリンピック出場がかかった大事な試合で熱が入っていた。昨日までの時点でチリは2位だった。一度も試合に負けていなかった。特に観客のインチャ(野次とばし)合戦は熾烈を極めた。オレはカンチャ横の一番いい席に陣取った。チリが前半2点先取した。奴らの応援に拍車がかかった。「チ!チ!チ!レ!レ!レ!バモ!!チレ!!!」とチリのサポーターがパラグアイのサポーターに見せつけるようなデカイ声で挑発する。当然パラグアイ側からも野次がとぶ。


 


ところが後半、パラグアイは同点に追いつき、さらにもう一点加えて逆転に成功する。もうすさまじい盛り上がりようだった。「ざまあみろチリ!」「さっさと国に帰れ!」「クソしてこいヘボ野郎!」「イホデプタ!」などと、各サポーターが好き勝手なコトバを向こう側に投げとばす。チリのサポーターも負けじと言い返す。そしてとうとう、殴り合いの乱闘が起こった。警察と機動隊がすぐに駆けつけて事態の収拾を図ろうとするが、容易には収まらない。むしろ奴らのインチャ合戦はさらに過熱していった。いつもこうなる。奴らは決して期待を裏切らない。オレはもうそんなのが大好きで、楽しくって仕方がなかった。オレもテンションハイになって、「もっとやれー!!!」とか「チリの国旗を燃やしちまえ!」とか叫んで乱闘に拍車をかけてやった。サッカーの観戦はこうあるべきだと心から思った。ピッチ上でも後半に一回、選手たちのあいだで乱闘騒ぎがあった。やはり警察と機動隊が即効駆けつけた。試合は3-2でパラグアイが勝利したが、パラグアイ(アテネ五輪準優勝)の2大会連続のオリンピック出場は成らなかった。


 


第二試合のウルグアイVSアルゼンチンは寒かった。気候がではない。試合そのものとサポーターの盛り上がりに、いまひとつ「熱」がなかった。無理もなかった。アルゼンチンを応援するパラグアイ人なんてほとんどいるはずもないからだ。アルゼンチンはいつもパラグアイをバカにしている。だからみんなウルグアイに勝ってほしいと心の中では思っていたが、あえて声に出して応援するほどのものではなかったのだろう。いたって静かな試合だった。プレーする選手たちの声がよく聞こえた。前半が終了する頃、小雨が降りだした。一緒に来ていた佐々木君は、「もう帰るね」といってスタジアムを去っていった。帰りのバスが最終に近かったからだ。時刻はすでに9時30分をまわっていた。


 


雨はすぐに止み、オレはただボーっと試合を観ていた。依然0-0。ロスタイムに入った。「やっと終わりだ…」と思っていたその時だった。アルゼンチンが、コーナーキックのボールを頭で合わせてゴールを決めた。試合終了5秒前だった。まさに、「試合終了5秒前の奇跡」だった。ピッチの上で喜び歓喜するアルゼンチンの選手たちと、しりもちをつきただ呆然とするウルグアイの選手たち。サッカーとは得てして残酷なものだ。アルゼンチンの選手たちはベンチに戻り観客スタンドに向かって、「アールヘンティナ!!!アールヘンティナ!!!」と肩を組んで叫びまくっていた。


 


最終試合、コロンビアVSブラジル。スタジアムがにわかに活気づいてきた。観客が少し増えた。「ポルフィン、ジェゴー(やっと出てきたな)!」と観客の誰かがピッチに向かって叫んだ。そう、それはまさに、「やっと出てきた」という表現にふさわしかった。きっとスタンドのほとんどの人がそんな気持ちだっただろう。でなければ、いったい誰が夜の10時を過ぎてまでしてスタンドに残るだろうか。みんな眠いし、明日には仕事があるのだ。すべては、「ブラジルの試合を観るため」だった。ブラジルの試合を観ないで帰ることなど、南米においてはありえないことなのだ。黄色いユニフォームの選手たちがアンセムにあわせてピッチに出てきたとき、スタンドで大きな歓声がわき、眠気はすべて闇へと消えた。オレはパラグアイの試合より興奮した。「王者」の登場を、みな快く讃えていた。


 


正確なパスまわし。広いカンチャをフルに使ったサイドチェンジの多用。するどく的確なスルーパス。トリッキーな連係プレー。「いざ」というときの巧みで力強いドリブル突破。彼らのプレーは、どの瞬間をとっても観る人を惹きつける。いわば見逃せる瞬間がない。前半に、スルーパスをドリブルで持ちこんでブラジルが2点決めた。だが、そんなことで観客は満足しない。観客はブラジルに「勝ち」を期待してはいない。ブラジルは勝ってあたり前なのだ。観客がブラジルに望むのは、いつも勝利「以上」の何かである。


 


ロスタイムのときに、なんとアルゼンチンの選手たちがフツウにスタンドにゾロゾロと入ってきて、オレの目の前の席にズラーっと座った。全部で30人くらいか。コーチや監督もいる。みんな少し驚いた。握手を求める人、サインを求める人が、次々にやってきた。「フェリシダーデス(おめでとう)!」と云ってみんな選手たちの健闘を讃えていた。とその時、スタンドの少し向こうの方でも人だかりができていた。むしろそっちの方が多くの人が囲んでいた。行ってみると、ブラジルの選手だった。たった一人の選手をめぐって、「サイン!サイン!」とか「こっち向いて!腕組んで写真とって!」とか「だれかマジック貸してくれ!」とかすごい人気ぶりだった。しかも驚くべきことにその選手は、ファンひとりひとりの強引な要望に、ひとつひとつ丁寧にかつ明るい表情で対処していた。何ひとつとして、ファンの要望を投げやりにしていなかった。「いま恋人から電話がかかってきたんだ。なにか喋ってあげてくれないかな」と云って携帯をさしだすファンに、「あー、こんばんは。元気していますか?いまブラジルの試合観ている!?・・・ありがとう。おやすみ」とまともに話していた。


 


彼の名は、パトという。U-20のブラジルのフォワードで、今大会では5ゴール決めている(今大会のブラジル最多)。期待のホープらしい。オレは彼を知らなかった。ちょうどその時、オレはブラジルの座布団を持っていたので、それにサインしてもらった。やはり丁寧にサインしてくれた。そして握手をした。「ブエナ・スエルテ(がんばってね)」と云って「オブリガード(ありがとう)」と笑顔で答えてくれた。だからオレは、これからブラジルのパトに注目しようと思っている。


 


試合は2-0でブラジルが勝利。でもコロンビアも悪くはなかった。いや、実を云うとコロンビアは強かった。カウンター攻撃で強烈なシュートを何本もくらわしていたし、ゴールバーやポストにあたる惜しいシュートもいくつかあった。後半は完全にコロンビアが食らいついてボールを支配していた。でも、勝つのはなぜかブラジルだった。そしていつもブラジルだった。


 


選手たちが全員ピッチに出て騒ぎまくっていた。スタンドも大騒ぎ。「ブラ!ブラッジルー!!!」「ブラ!ブラッジルー!!!」という大声援がピッチにとぶ。選手たちもそれに応えて「ブラ!ブラッジルー!!!」と、一緒になって歓喜していた。


 


表彰式が行われた。3位ウルグアイ、準優勝アルゼンチン、優勝ブラジル。北京オリンピックには、ブラジルとアルゼンチンが出場することになった。3位のウルグアイと準優勝のアルゼンチンの選手たちひとりひとりが、FIFAの重役からメダルを首にかけてもらっているその時に、ブラジルの選手たちは表彰台の横で、ボンゴを叩き、タンバリンのリズムに合わせてサンバを踊っていた。アルゼンチンの選手たちは、ただだまってその光景を見ていることしかできなかった。


 


なんて奴らだ・・・とオレは思った。アルゼンチンのタンゴは、ブラジルがいるかぎりこの先もずっと、彼らのサンバの下にむなしく響くことだろう。ブラジルというチームは、いつもあかるい陽射しの中にいて、いつも自らあかるい陽射しを放っている。スタンドでは、「ブラ!ブラッジルー!!!」の歓喜の声が、相変わらずスタジアムにこだましていた。


 


すべてが終わって、オレはスタジアムからはまなすセンターまで、夜のアスンシオンの街を歩いて帰っていった。帰り着くのに約2時間半かかった。夜中の3時をまわっていた。でも、ちっとも苦ではなかった。道の途中、サンバを歓喜する黄色い「王者の踊り」が、ずっとオレの頭の中でぐるぐると快くまわっていたのだった。






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2007.01.29 Mon
ワニの肉


きのう、約3週間ぶりにアスンシオンに帰ってきた。チャコ地方のジャルベサンガ村でのフィールドワークは一応終了した。一休止して、今度また違う村に入る。次の村も同じチャコ地方で、エンヘット族の村なのだが、その話はまたこんど。


 


はまなすセンターに荷物を置いてすぐにメルカド4へ向かった。「小食館」という中華料理屋で、マーボードーフとホイコーローとご飯2杯とバビエラ(ビール)を一生懸命に食らった。3週間ぶりの冷たいビールは天に昇るほどうまかった。刑務をおえてシャバに出てきた感じだった。ジャルベサンガ村ではアルコールの飲酒は禁止されている。しかも、ちゃんとした食事を摂るのは一日に一回(昼メシ)だけだった。しかも3週間おなじメニュー。おかげで、オレの体重は50kgを切ってしまった。


 


今月のはじめ、チャコ地方へ向けてアスンシオンをバスで発った。協力隊員のトオルさん(養護隊員:パラグアリ県)とその彼女のサッちゃん(元日系商工会職員)も一緒だった。「チャコ地方を一度見てみたい」とのことで、一緒に行くことになった。


 


向かった先はローマプラタ。メノニータ(ドイツ系移住民)のコロニーだ。そこには、これまた協力隊員のシンヤさん(SE隊員:ボケロン県)が活動している。彼の大きくてキレイなホームステイ先に2日間泊まらせてもらった。たくさんのご馳走がでた。


 


4人でメノニータの移住博物館に行き、「トレボル」の牛乳工場を見学した。シンヤさんの活動先(職業訓練学校)を訪れ、そのあとカンポ・マリアという国立自然公園へジープで向かった。ローマプラタから約40分。シンヤさんのホームステイ先のニケ(メノニータ)が車を運転してくれた。見わたすかぎりの緑のジャングルと大きな湖がある。パロサント(「聖なる木」の意)がそこら中にはえていた。時期によっては、湖にはフラミンゴがいるという。


 


カンポ・マリアからの帰りに、ニケの友だちが今からワニを解体するというので、オレたちもその現場へ向かった。ワニが上から紐で吊るし上げられていた。「ここ(チャコ地方)にはワニはいっぱいいるよ。前なんかいっきに40匹捕まえたさ」と云ってそのイカツイおっちゃんは、ボールの中のたくさんのワニの卵をオレたちに見せてくれた。いかにも頑丈そうな殻をしていた。


 


そして、ワニの解体。丈夫な鋼のような皮をナイフでゴリゴリビリビリと引き裂いていく。それがひと通り終わると、次に内臓を取りだす。そして最後には、ワニはひどく滑稽な姿となってしまった。魚の生臭さがあたりをプゥーンと包んでいた。


 


その日の夜、オレたちはシンヤさんのウチでワニの肉をから揚げにして食らった。魚の白身のようなパサパサした食感と、鶏肉のようなきめ細かな食感がダブルで内包されている。シンヤさんもトオルさんもサッちゃんもオレも、「こんな食感の肉ははじめてだー!」と云って感動しながらバクバク食らった。あんなにグロテスクなワニがこんなにも繊細な肉を持っていたとは、一つの新鮮な驚きだった。そしてそれは、じつに高級で上品な味がした。


 


さて、オレはいまからスタジアム(Defensor del Chaco)にサッカーの試合を見に行く。いまU-20の南米選手権がやっている。今年の開催地はパラグアイ。ここでの上位2チームが世界選手権に出場することになる。きょう(1月28日)が最終日。パラグアイが上位2位に入るためには、きょうの対チリ戦で4点以上の差をつけて勝たなければならない。そのほか、ブラジルやアルゼンチンの試合もある。試合は全部で3つ。スタジアムのすさまじい歓声がもうすでに聞こえてきそうな気がする。


 


いまこっちは夏真っ盛り。灼熱の太陽。ここにいると、気候だけでなく、人々や動物や植物など、地球上のありとあらゆる生命の「熱」を身体全体で感じることができる。エネルギーがみなぎるような日々をおくっている。そしてオレは実感する。


 


いまオレは、情熱大陸の中に生きていると。





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2007.01.08 Mon
国境に生きる人々


国境越えは、旅人にとっての醍醐味である。国境を越えるときの、イミグレでチェックを受けるときの、あの緊張感は何ともいえない。陸路で旅をすればよくわかることだが、国境付近の町はいつも独特である。国を色にたとえるならば、国境付近の町は、両国の色が混じりあった曖昧な色ということになるだろう。


 


たとえば、ある国から他の国へと陸路で移動する場合、国境を越えた瞬間から、文化や生活様式がある国から他の国へと、ガラッと変わるということはまずない。それらは移動とともに徐々に変化していくのであり、そうした漸次的な変化を経験できるのは陸路ならではの楽しみといえるだろう。


 


パラグアイのシウダー・デル・エステは、パラナ河を挟んでブラジルとアルゼンチンとに国境を接した町である。パラグアイとブラジルは、「友情の橋」によって結ばれている。ブラジル側の国境の町はフォス・ド・イグアスといい、ブラジルからさらに橋をわたったアルゼンチン側の国境の町はプエルト・イグアスという。そしてそこには、世界三大瀑布のひとつであるイグアスの滝が、ブラジルとアルゼンチンの両国土にまたがって存在している。


 


オレは昨日、イグアスの滝に行ってきた。アスンシオンからバスで4時間半、シウダー・デル・エステの町に着いたのは夜明け前だった。そこから再びバスに乗り、「友情の橋」を越えてブラジル側に入り、さらにまた橋を越えてアルゼンチン側に入った。パラグアイとブラジルの国境は簡単なチェックでスルーしたが、アルゼンチン側のイミグレでは全員バスから降ろされ、入国審査を受けた。


 


イグアスの滝を訪れるのはこれで2回目だった。イグアスの滝は、ブラジル側とアルゼンチン側とでは滝をみられる場所と角度が異なる。前回はブラジル側から滝をみたので、今回はアルゼンチン側からそれをみることにした。シウダー・デル・エステのバスターミナルで出会ったアルゼンチン人のディエゴと行動を共にした。ディエゴの喋るスペイン語がアルゼンチン訛りで聞き取りにくかったが、国立公園の入り口でスタイル抜群の美人アメリカ人アニーと出会って2人のテンションはあがった。3人で滝を含む国立公園の自然をみてまわった。


 


ブラジル側は滝を下から見上げるのに対し、アルゼンチン側は滝を上から見下ろすスポットにある。もちろんそれぞれの滝の場所も少し離れている。すさまじい量の水が、恐ろしい轟音を唸りたてて滝壺に落ち込んでいる。そこが、「悪魔の喉笛」と呼ばれるスポットだ。ただただ、そこの光景をじっと見つめていることしかできなかったし、それだけで十分だった。圧倒的な大自然の驚異の前では、コトバは立ちすくみ、意味をなさなくなる。


 


オレの今回の旅はイグアスの滝でハイライトをむかえるはずだったが、そうではなかった。パラグアイのシウダー・デル・エステに戻って、「友情の橋」付近をぶらぶら歩いた。シウダー・デル・エステはいわゆる「無税地区」であり、パラグアイ一の経済都市といわれている。しかし、その経済のほとんどはアングラ経済(闇経済)である。「無税地区」といえば聞こえがいいが、むしろ「不法地区」や「闇商店街」といった方がふさわしいだろう。


 


町にはアラビア人や中国人や韓国人があふれていて、電化製品の商店を経営しているのはほとんどが中国人と韓国人である。中国系・韓国系のマフィアもたくさんいるという。つまり不法入国者たちも多い。エステの電化街の製品は値段が驚くほど安く、かつその大半はパチである。使ってすぐに壊れる商品が氾濫している。オレはデジタルカメラ用の単三電池をタダ同然の値段で買ったが、3枚撮って電池切れとなった。メーカーは「Panasonic」だった。


 


「友情の橋」は、格安の電化製品をたくさん買ってブラジル側へ持っていく人と、ブラジル側から品を持ちこむ人とで、ものすごい活気と喧騒である。ブラジル側へ持っていく人と車の方が圧倒的に多く、橋はいつも渋滞している。たった300メートルほどの橋なのだが、ブラジル側のイミグレにたどり着くのに、車で1時間以上かかったりする。


 


オレは「友情の橋」を歩いた。ブラジル側のイミグレまで行って戻ってきた。エステ側の「友情の橋」付近の喧騒がとくにすごい。バイクがたくさん並んでいてしきりに声をかけてくる。ブラジル側まで運ぶバイクタクシーだ。車で行ったんじゃ相当の時間がかかるし、歩いたんじゃ疲れる、ということでこの商売が発達したらしい。そんなバイクが「友情の橋」付近のいたるところで、歩行者そっちのけでブッ飛ばしているので危なくて仕方がない。


 


物売りもすごい。チパ売りやジュース売り、ハンバーガー売り、パチもん時計売りなど、いたるところで声をかけられる。とにかくゴチャゴチャしていてうるさくて、歩いているだけでめまいがしてくる。そして、「友情の橋」の前にあるパラグアイ側のイミグレは、向こう側に行く人や向こうから来る人をまったくチェックしない。きっと、すさまじい交通量のためチェックしてたんじゃラチがあかないし、そんな人件費もないので放っておいているのだろう。しかしそのせいで、法の規制量を超える電化製品を向こう側へもっていこうとする人たちがあふれ、不法入国者がつぎつぎと入ってきて、麻薬の取引も頻繁になされるようになった。


 


そんな状況にブラジルの政府は手を焼き、数年前からブラジル側のイミグレは、物品や人の不法入国を厳しく取り締まっている。以前はブラジル側のイミグレも簡単にスルーすることができたのだが・・・。しかし、パラグアイ側のイミグレは相変わらず見て見ぬ振りをしている。たとえ抜き打ちチェックでひっかかったとしても、5ドルほどわたせばスルーさせてくれる。賄賂天国なのだ。


 


「友情の橋」をわたっているとき、黒のテープでぐるぐる巻きにしたドデカイ荷物を肩にかついで運ぶ人たちと頻繁にすれちがった。さらに驚いたのは、ブラジルのイミグレ近くの橋のたもとから、ロープで下の陸地に荷物を引き降ろしている人たちがいたことだ。イミグレでチェックされたら絶対に引っかかるため、そういう手段に及んだのだろう。相変わらずすごい量の荷物だった。


 


「友情の橋」の途中には、パラナ河の景色が広がっている。ひと昔前は、橋の下のパラナ河にドラードがたくさんいたという。村上龍もそこで釣りをしてドラードを釣っている。それにしても、「友情の橋」とはよくいったもので、「友情」があるから、「友だち」なんだから規制も甘くみてよ、といった人々の意識が実によく象徴されている。


 


シウダー・デル・エステの「友情の橋」付近で、たったいま店から品を盗んで逃げた男を警察が取り押さえるところを目の前で見た。その近くでは2人の男が一触即発の喧嘩をしていた。それらのまわりに野次馬がたくさん集まって、激しい罵声をかけて彼らを煽りたてていた。みんなそういうのを楽しんでいるようすだった。警察の取り締まりはかなりあまい。まさに「カオス」だとおもった。


 


ブラジルは数年前からイミグレの規制を厳しくしたが、「友情の橋」を中心にくり広げられる国境貿易(闇貿易)は、依然として衰えるところを知らないようすだった。約3年ぶりにシウダー・デル・エステを訪れたオレには、それがうれしかった。国境に生きる人々の、しぶとさとしたたかさを感じることができたからだ。


 


あいまいでグレーな領域のシウダー・デル・エステ―そこはたしかにカオスだが、人々のエネルギーがうっとうしいくらいに満ちあふれている。この町のエネルギッシュな喧騒が止むことは、おそらくこの先もないだろう。そして、そんな日々めまぐるしく「動いて」いる国境の町がオレは好きだ。


 


そこで染みついた町と人々のエネルギーは、帰りのバスの中でも拭いとることができなかった。また行こう、とおもった。



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2007.01.05 Fri
テレレのしあわせ


今日もまた、早朝からイタグアに行ってきた。


メルカド(市場)の食堂でエンパナーダとトルティージャとコシードを食らって、元エイスケのウチで蚊帳を買った。そのあとメルカドで、FCバルセロナとセロ・ポルテーニョとリーベル・プレートとボカ・ジュニアーズとバイエルン・ミュンヘンとチェルシーとASローマのユニフォームと、ナイキのキャップとナイキのショートパンツを買った。もちろんすべてパチだった。


それから街をぶらぶら散歩した。青い空、赤い土、緑の木々、あかるい陽射し、そしてトランキーロな雰囲気・・・イタグアの街はいつもそんなのに満ちあふれている。


アスンシオンでは絶対にありえないことだが、この街では人と人がすれ違うときなど、「アディオース!」と声をかけることが多い。オレも「アディオース!」と返す。街をゆっくりと歩いていると、ウチの前で椅子を丸くかこんでテレレをしている人たちによくでくわす。


テレレは、冷たいマテ茶をみんなで回し飲みするパラグアイ独自の飲み物。グアンパと呼ばれる容器にマテの茶葉を入れ、それに水を加えてボンビージャと呼ばれるストロー状のものでチューっと飲む。こうした飲み方は、アルゼンチン、ブラジル、ボリビアにもある。それらの国にもマテ茶を飲む習慣がある。ただ、それらはすべて熱いお湯で飲まれる。冷たい水でマテ茶を飲む(テレレ)のは、パラグアイだけだ。


マテ茶(テレレ)には、マテインと呼ばれる成分が多分に含まれていて、それはカフェインよりも覚醒性が強い。しかも栄養分も豊富にあり、「飲む野菜」とも云われている。肉ばかり食べるパラグアイ人は、このマテ茶(テレレ)によって栄養のバランスをとっている。と一説では云われているが、真実かどうか定かではない。


みんなの輪に加わって、のんびりとテレレをしながら、グアラニー語で他愛もない話をしているときが、オレにとってもっとも充実をおぼえる瞬間である。ゆっくりとしたやさしい時間がながれる・・・


そういえばこの前、青年海外協力隊14年度2次隊(オレと同期)のY木修治(果樹隊員)の作詞作曲した『テレレのうた』をひさしぶりに聞いた。


 


なつかしい唄が きこえる♪ ・・・


アレレってときもー トホホってときもー♪


テレレね一杯 飲んでーいーこぉー♪


 


知らないまに口ずさんでしまう そんな唄だった。


 

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2007.01.03 Wed
地球の裏側で新年を叫ぶ


バエテコ(元気ですか)!!!


オレの2007年は、はまなすセンターの屋上で開幕した。そこからは、アスンシオンを一望することができた。はまなすセンターが高いのではなく、まわりに高い建物がないのだ。花火やバクチクがアスンシオン中になりひびく。水平線上が大花火でバンバン光って、街中が大さわぎだった。そしてオレはおもいっきりグリート(叫び)した。


「バエテコ!ラ・ヘンテ(みんな元気ですか)!!!」


気持ちよかったー!日本の年明けも趣きがあっていいかもしれないけど、地球の裏側で迎えるドンチャン騒ぎの年明けもなかなかわるくない。こっちは夏まっさかりだ。


新年を屋上で迎えたあと、オレはディスコへいった。夜中の2時半。「コヨーテ」という、パラグアイでもっとも高級なディスコが、はまなすセンターの近くにある。入場料はそれなりにしたが、ディスコの中には、モデル級の美人しかいなかった。ウェイターがビールやカクテルをお客に給仕してまわっている。有名な音楽グループのライブ演奏があって、みんなでサイコーに踊り狂った。すごい熱気だった。だが、すさまじい熱気の中にも品がある。そういうディスコなのだ。


コヨーテで完全燃焼したあと、夜明け前の街をひとりフラフラになりながら歩いていた。途中、お腹のチョーシがおかしくなった。マズイ!とおもったが、ホテルまであと少しだといいきかせて歩きつづけた。ゲリにはP波とS波がある。それらが定期的にやってきた。第1回目のそれらをなんとか乗り越え、ホテルまであと100メートルとなったときだった。第2回目がオレのお腹を急襲した。


そしてなんと! もらしてしまった・・・ 


ウンコは、1回出始めるともう止められないらしい。滝のようにすさまじい勢いでながれでた。・・・しかしオレは歩きつづけた。歩きつづけるしかなかった。ウンコがズボンの内側を下に伝っていくのがわかった。オレは、それらが下に流れきってしまわないように、お尻の部分を押さえながら、ビッコをひくかたちで、足を引きずりながら歩いた。夜明け前のアスンシオンの街を。


悲しかった。いや、腹立たしかった。しかし、この怒りをいったい誰にぶつければいいのかわからなかった。『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー著)のホールデンの気持ちを連想していた。


「アリー・・・オレを消さないでくれよ・・・アリー・・・お願いだよアリー・・・」


道の途中、メルセデス・ベンツの販売店の警備員が、足を引きずりながら歩くオレを不可解な目で見ていた。ば、ばかやろー!・・・見せもんじゃねんだこれは・・・


そのときオレは冷静になった。冷静になって自分をみつめた。まてよ・・・元旦にウンコもらすやつなんて、きっと世界中でオレくらいのもんだろう・・・ということは、オンリーワンだ・・・!そう考えたとたん、その時の自分の見苦しい姿が、激闘の末の傷ついた勇者のようにみえてきた。あるいは、相手に打たれても打たれてもリングに這い上がる『ロッキー』の姿を、その時の自分に重ねていた。オレは自分を英雄に見立てた。あらゆるイマジネーションをつかって、そのときの自分をポジティブにとらえようとした。そして、それらはことごとく成功した。結局は、気持ちのもちようなのだと思った。ただ、お尻から足にかけて不気味になまあたたかった。


はまなすセンターに戻って、トイレにかけこみ、必死になまあたたかいズボンを脱いだ。そして・・・


なんじゃコリャー!!!


と叫んでしまった。そのあとが大変だった。オレは、自分のウンコがついたズボンを洗面所で洗っているとき、なんだか無性にくやしくなった。とその時だった!ズボンの中にパスポートとサイフを入れっぱなしにしていたことに気づいた。案の定、パスポートとサイフはビショビショになり、出入国のスタンプはインクがにじんでスゴイことになってしまっていた。オレは、なにもかもがイヤになった・・・そしてそのまま、服を着たままその上からシャワーを浴びた。そしてその場にしりもちをつき、うなだれた。シャワーはオレの頭に降りつづいた。その時オレは、やはり『ライ麦畑でつかまえて』のワンシーンを思い描いていた。たしかこんなシーンがあったな・・・と。


そのあと、いろいろあってオレはその日、38度の熱をだした。お腹がおそろしく痛んだ。2007年の1月1日(元旦)、オレはパラグアイのはまなすセンターのベットから起き上がることができなかった。


同じはまなすセンターに住居し、日系商工会ではたらいている佐々木君がおかゆを作ってくれた。オレは、重い体でなんとかそれを食った。こんな時、オレにもつき添ってくれる女性がいたらなあ・・・と思いつつ。


結婚したい・・・


とココロの底から思った。きっとウンコもらしてそんなことを思うのはオレくらいのものだろう。実を云うと、ウンコをもらしたのはこれが始めてではない。中学校2年のときに教室でもらしたことがある。卒業アルバムの6月の行事の欄に、「教室クソたれながし事件」としてそれは記録に残っている。つまり、今回はオレの人生で2度目の偉業なのだ。世界広しといえども、元旦にウンコもらしたやつはオレだけだ!しかもこれで2回目だぞ!!ベッドに横たわり、窓の向こうの空の青さが眼にしみた。大きな雲が、ゆっくりとそこをながれていった。オレは、ニヤリ・・・とほくそ笑んだ。


オレの2007年はそうやって始まった。


 

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2007.01.01 Mon
ジャルベサンガ村


首都のアスンシオンからバスで約7時間のところにフィラデルフィアというドイツ系移住民(メノニータ)のコロニーが存在することは前に書いた。そのフィラデルフィアから35キロほど行ったところに、ジャルベサンガ村はある。その村に行くのに、公共の交通機関はない。オレは、ASCIM(メノニータ・先住民協力機構)の事務所に頼んで、その村まで連れて行ってもらった。


ジャルベサンガ村はエンヘット(族)の大きな集落である。となりには二バクレ(族)の集落であるニバクレ・ウニダという村がある。交渉の末、ジャルベサンガ村の曾長(この村では「管理者」という)のダビのウチにホームステイできることになった。1月から、そこを拠点にフィールドワークを開始する予定だ。


ゴマを栽培する畑がいくつも大きく広がっていた。村にはアルマセン(雑貨屋)1コ。電気はほとんどの家庭にあるが、水は井戸水だ。日中は暑く、空が本当に青くて眼にしみる。夜はものすごくシーンとしていて、空はまるでプラネタリウムである。星をさえぎるものがなにもない。


今回はそこで1泊だけした。オレにはダビ(曾長)のウチの、小屋があたえられた。蚊が多いので蚊帳が必要だ。バケツに水をためて体を洗う作業にはしだいに慣れるだろう。


エンヘットの人たちはあまりしゃべらない。というより、めったにしゃべらない。ただだまーって、ゆーっくりとテレレ(冷たいマテ茶の回し飲み)をする。たまーにボソリとなにか云うが、至極か細い声である。大きな声でしゃべる「必要性」がないのかもしれない。


彼らとコトバ少なでテレレをしているとき、自分たちがまわりの自然にひっそりとやさしく包まれている感じがした。ある種の「つながり」を覚えたと云ったらいいか。不思議な感覚だった。


そんな彼らと数日間一緒に暮らす。なにか得られるかもしれない。研究のためだけでなく。


彼らはスペイン語と、そしてエンヘット語を話す。グアラニー語なら少しはオレでもわかるのだが、エンヘット語ははじめてだ。少しずつ学んでいきたいと思っている。


※ いまオレは、首都のアスンシオンにいる。あと6時間ほどで「2007年」を迎える。日本ではもう、新しい年がはじまっているのだろう。そんな日本の友だちに「あけましておめでとう」と云い、「来年もよい年でありますように」といま地球の裏側で思っている。きっと今夜はディスコで朝まで踊るだろう。



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