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追越ノート―「ここ」から世界へ
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TAKESHI

Author:TAKESHI
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2006.09.29 Fri
WATER BOYS!!!

きのう、日本にいる別のともだちから、手紙と一緒に『ウォーターボーイズ2』と『ウォーターボーイズ2005夏』がおくられてきた! 

そんなこと予想だにしていなかったから、もう!チョーうれしくって!、おもわずとび上がってユカタン半島を3周しちゃうところだった。そのともだちは、オレの好みをよく知っていて、百発百中の贈り物をオレにくれた(大切なともだち!)。

オレは『ウォーターボーイズ』が大好き!!!

8月初旬、メキシコに旅立つころ、テレビの再放送で『ウォーターボーイズ2』がやっていた。オレは、もう何回もみてるけど、やっぱりまた夢中になってみた。でも、第3話がおわったころにはもうメキシコに旅立たなくちゃならなくて、心残りのまま日本を後にした。メキシコに来てからも、部屋に一人でいるときは、「あー・・・『ウォーターボーイズ2』みたいなぁ・・・」って何度おもったことか!

オレにとって、バイブルと呼べるほどのドラマが2つある。
『それが答えだ!』(みんな知ってるかなあ)と『ウォーターボーイズ2』だ。
ちなみに、大っ嫌いなのは『3年B組金八先生』。


映画からドラマのすべての『ウォーターボーイズ』シリーズにわたって、シンクロの演技指導をしている人がいる(実はドラマの中にも何度か登場しているけどね:坊主役!)。その人こそ、実際の「ウォーターボーイズ」の先駆けともいえる人。

不破央さんだ。

彼は、元水泳100m平泳ぎ日本記録保持者だった。でも、直前に怪我をしてしまい、オリンピックにはいけなかった。その後、人生にさんざん迷っているときに、山手線の車内で「青年海外協力隊」のポスターを発見する。そして、中米のグアテマラに水泳隊員として派遣されることになった。彼が任地に赴くと、なんとそこにはプールがなかった。彼の活動はそうやってはじまった。

日本に帰国後、隊員時代に得た「なにか」を大事に失わず、水中劇団「トゥリトネス」をたちあげる。そして現在も「水の道化師」として活躍中。


オレも隊員時代、任地に赴任すると、そこには何もなかった。
オレの活動も、何もないところからはじまった。

意思の疎通がぜんぜんうまくいかなかったり、みんなに誤解されたりで、「貧困」というのを実際の現場でいやというほど目の当たりにした。

でも、そんな試行錯誤の日々から一つ学んだことがあるとすれば、

「動か」なければ意味がないということ。「考える」ことや「思いつく」ことは大事なことかもしれないけれど、そこには何の意味もない。

一歩踏みだすことで、そこにはじめて意味が生まれる。
「動く」ことでしか「意味」は生まれない。

オレの任地には、悲観的になるべき要素はいくらでも存在した。
でも、悲観的になることからは何も生まれない。

自分を信じてただまっすぐに活動した。すると、不思議とそれに同調してくれる人たちがでてきた。自分が「動く」ことで、「何か」がかわった。自分が少しずつ「変わる」ことで、自分のまわりの人たちも少しずつ「変わ」っていった。そんなのがサイコーに楽しかった。


だからオレは、『ウォーターボーイズ』が好きなのかもしれない。


さあーて!帰ってまたそのつづきみよっと!



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2006.09.25 Mon
『坂の上の雲』-其ノ弐-

さて、『坂の上の雲』。

当時の日本人には、『坂の上の雲』と呼べる見果てぬ夢があった。

坂本竜馬にとっては「維新回転」と自身の「株式会社」の世界的な展開が彼にとっての『坂の上の雲』であったろうし、正岡子規や秋山兄弟にとっては日本の「近代化」が彼らにとっての『坂の上の雲』であったといえるだろう。

さらに時代を下れば、白洲次郎にとっては戦後の「新しい日本」が彼にとっての『坂の上の雲』であったろうし、高度経済成長期を生きた技術者たちは、日本の科学技術の発展をそのまま国の発展に結びつくものと信じて『坂の上の雲』としていた。

では、現代はどうか?
あなたにとっての『坂の上の雲』はなんですか?

村上龍が云うように、いまのこの時代、かつてあった「国家目標」はもうすでに亡くなってしまった。各々の仕事の頑張りが、そのまま国家の「近代化」に直に結びついていた(と実感できていた)時代では、各々の仕事にそれなりの「やりがい」を見い出すのはそう難しいことではなかった。あるいは毎年の所得倍増が、それを実感として確かなものにしていたともいえるだろう。

しかしいまは違う。東大に入学して国家機関のキャリアになることが「しあわせ」のかたちとしてあった時代はもう終わった。野村證券や電通に入社することが必ずしも個人の「しあわせ」に結びつくとは限らない。

そもそも「しあわせ」とはなんなのか?
あなたにとっての「しあわせ」とは、私にとっての「しあわせ」なのか?
そもそもあなたの「しあわせ」と私の「しあわせ」は同じものなのか?

時代は変わった。そしていまも大きく変わりつつある。「国家目標」が崩壊したいま、「しあわせ」の基準がなくなってしまったいま、「しあわせ」の基準は自分自身でさがし求めなくてはならない。

グローバル化の時代とは、個人のひとりひとりが、つねにその根底から自分自身を問われる時代であると私は思う。

それは混迷の時代である。
明治維新にも劣らぬほどの。

いまおもえば、私もいまにいたるまで自分自身の『坂の上の雲』をさがし求めて人生を旅してきたのだ。

そしていま、私はここメキシコのメリダにいる。

私の『坂の上の雲』はまだみつからない。
みつかりそうで、みつからない。
あるいはもう、すでにどこかでとおり過ぎてしまったのか・・・

わからない。
だけどいま、私はここにいる。

私の『坂の上の雲』を、いまもさがし求めている。



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2006.09.23 Sat
『坂の上の雲』-其ノ壱-

日本にいる友人から『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』を送ってもらった。それが昨日とどいた。異国の地で司馬遼太郎の本を読むのは格別の贅沢に相当する。『竜馬がゆく』はもう3回目になる。『坂の上の雲』は初めてだ。いま夢中になって読んでいる。

幕末当時の日本とは、三百諸侯の時代である。当時「お国」といえば、大名をかかえる各地域(いまでいえば「市」あるいは「県」に相当する)のことを指していた。当時の勤王の志士はみな、認識の上では「お国」の中で「お国」のために戦ったといえるだろう。

維新回転の大立役者である西郷隆盛もその例外ではなかった。彼は明治政府樹立後も、「薩摩」のために戦い、「薩摩」のために死んでいった。彼の「お国」のために死んでいったといっていい。維新の著名な功労者たちにとっても、最後の最後まで、認識の上で「お国」の概念から抜け出すことは極めて難しいことだったのである。

坂本竜馬が、日本で初めての「日本人」だったという司馬遼太郎の見解に私は賛成する。彼の小説の内容の真偽はともかくとしても、実際の史料にもとづき坂本竜馬の行動をたどってみさえすれば、それはしごく妥当な意見であると云わざるを得ないだろう。

坂本竜馬は、地理の上で土佐という自らの「お国」を越えて維新回転のために日本各地を奔走してまわった人物というだけではなく、認識の上でも「お国」を超えた当時唯一の人物であった。彼の頭の中には、土佐という「お国」を超えて、外国に対峙すべき「日本」という概念が存在していたに違いない。

三百諸侯の時代はとうの昔におわり、いまは「日本」という認識が当たり前となっている。時代は変わった。それとともにわれわれの認識も変わらなければならない。

グローバル化というドラスティックな変化の真っただ中にあるいまの時代、われわれに課された難題は、「日本」という「お国」を超えることにあるのではないか。

それが少なくとも、いまの私の課題であることには相違ない。


次回につづく・・・


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2006.09.19 Tue
「最高の瞬間」を追いかけて

9月16日は、メキシコがもっともフィーバーする日。
―独立記念日―

2週間くらい前から「最高の瞬間」を迎える準備が始まる。そして「最高の瞬間」にむけて、街は徐々に活気づいていく。

前夜祭の15日の夜、大学の友だち数人とソカロ(中央広場)に集まって、バーで一緒にビールを食らった。バーの中はあふれんばかりの人々と、マリアッチの軽快な音楽とで満たされていた。

夜11時頃、バーからソカロにでると、そこではすでにすさまじい群集がただならぬ雰囲気をつくりだしていた。

群衆の中に入っていく・・・
ひとびとに押しつぶされて思うように身動きがとれない・・・
そうこうしているうちに「最高の瞬間」はやってくる。

¡VIVA MÉXICO!  ¡VIVA MÉXICO!  ¡VIVA MÉXICO!

という群集のグリート(叫び)が、独立宣言文の独唱とともにメキシコの空に放たれる。花火が上がり、何百羽というハトが空に解き放たれ、それとともにハトの糞が群集の頭の上にいっせいに落ちてくる。

群集の雄叫びと狂乱の中で、オレは果てしない「自由」を堪能していた。そしてその時の「自由」は、これまでの苦労をすべて帳消しにしてくれた。

これまでのすべての苦労が清算され、いまの自分のすべてが肯定される。「最高の瞬間」とは、えてしてそういうものだ。

オレはこれまで、いったいどれだけの「最高の瞬間」を迎えただろう。そしてこれから、あとどれだけの「最高の瞬間」を経験するのだろう。

「最高の瞬間」は、これまでいくつもあった・・・

おもえば、オレはこれまで「最高の瞬間」を迎えるためだけに生きてきた気がする。そしてこれからもそうやって生きていくだろう。

生を受けた瞬間から、死へのカウントダウンは始まっている。人の一生でできることは限られている。だからこそ、「やりたくないことをやっている」時間などないのだ。

「ああしてればよかった・・・」「あの時こうしていればなあ・・・」といった悔恨のおもひは、オレのこれまでの人生で何ひとつない。いま死んでもいいくらいのすばらしい人生をおくっていると自負している。

「最高の瞬間」はやがて終わりを告げる。しかし、
「最高の瞬間」を追いかける旅はこれからもつづく。

12月のクリスマスはどこで迎えようか・・・
こんどはパラグアイのイタグアの家族と一緒に「最高の瞬間」を分かちあおうかな・・・


暑くて熱い夜、メリダの群集のすさまじい熱気に同化して、オレはそんなことを考えていた。



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2006.09.12 Tue
ひびくコトバ

なにもかもが嫌になって、自分の無力さに嫌気がさし、失望の声に打ちひがれるとき、そんな時、オレはブルーハーツの歌を聴く。大音量で。夜中の3時をまわるころ。


「世の中に冷たくされて ひとりぼっちで泣いた夜 もうダメだと思うことは いままで何度でもあった」

「ホントの瞬間はいつも 死ぬほど怖いものだから 逃げだしたくなったことは いままで何度でもあった」


どんなにキレイなコトバを並べたてようと、その人の心にひびかなければ、なんの意味もないのだと、ブルーハーツの歌を聴いていて、そう思った。


「終わらないうた」をうたおう 

あしたには笑えるように


あなたはいま、ひびくコトバ もっていますか?


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2006.09.11 Mon
「落ちこぼれ」日記

いよいよ授業がはじまった。

一コマ4時間!というわけのわからないカリキュラム。
毎回、課題図書がわんさか出される(一回の授業に2冊くらいは読まないといけない)。とうぜん、寝るひまがない。ので、半ば放心状態で授業に臨む。

文献を読んでいかないと授業の内容はチンプンカンプン。文献を読んでいっても授業の内容はチンプンカンプン。

大学院の授業はディスカッションが中心。みんなうるさいくらいに堂々とよく発言する。しゃべるのが早すぎてついていけない。ときどきみんなで一斉に笑うときがあるのだけれど、オレにはなにが面白いのかまったくわからず、むなしさと焦燥感におそわれる。

ここの大学は留学生が多い。(とくにアメリカ合衆国からの)

授業のラスト一時間は、わけのわからない「じゅもん」の聞き疲れでゲンナリ。そして、授業の終了とともに「劣等感」をおぼえながらキャンパスをあとにする。

ここでは、自己主張を強すぎるほどにハッキリしないとやっていけない。それがコミュニケーションの基本となる。わからなければ、「わからない」といわねばならない。「自分の意見」をもたないもの(発言をしないもの)は、「そこにいないもの」とみなされる。

ここにいると、自分の「しょぼさ」や「無力さ」をいやというほどに痛感させられる。「失望」や「むなしさ」におそわれるのは毎晩だ。ここではつねに「自分」という存在が根底から問われている。


そしてそれこそが、日本にいるときにオレが求めていたもののすべてだった。


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2006.09.02 Sat
87年前の「日本人」

つい最近知ったことだが、いまから87年前の1919年、ここメキシコ・ユカタン半島のメリダに、足跡を残した一人の日本人がいる。彼の名は、

HIDEYO NOGUCHI

彼が黄熱病の研究に従事したオーラン病院(Hospital General Agustin O'HORAN)は、セントロ(中心部)から北西に少し離れたところにある。

オーラン病院の中は、診察待ちの人たちであふれていた。ところが、彼の銅像がどこにも見当たらない。ひょっとしたら、80年以上も前の日本人のことなど誰も覚えていないのではないか。無理もない。野口英世は、オレたち日本人にとっては有名人かもしれないが、こんなメキシコの地方の人たちが存じ上げるような人物ではあるまい。

ためしに受付のおばさんに、「ヒデヨ・ノグチの銅像はどこにあるの?」と訊いてみた。彼女は、わけがわからぬといった表情を示した。「ヒデヨ・ノグチ、ヒデヨ・ノグチだよ・・・はるか昔にここで働いていたことがある日本人の医者だよ・・・」とオレもがんばってみた。しばらくして彼女はやっと合点がいったようで、

「AHー! HIDEYO NOGUCHI!!!」

といって、銅像のある場所をおしえてくれた。ところが、またもやその場所がよくわからない。だめもとで、庭を掃除していたおじさんに訊いてみた。彼は丁寧にその銅像のある場所をおしえてくれた。「ヒデヨ・ノグチは、ここの人たちにとっても有名か?」と訊いてみたら、「あたりまえだ。知らない人はいない」と云っていた。

その銅像は、病院の事務を司る本部棟の前の庭の中心に据えられており、柵を介して表通りにも面していた。思っていたよりも小さくて、はじめはわからなかった。しかし、たしかにヒデヨ・ノグチだ。しかも、本部棟の中心に据えられ、病院の「顔」となっている。銅像の下のプレートは、長い年月ですり減りが激しく、唯一「博士」という文字だけ読めた。

オーラン病院の通りをはさんだ向かいには、医学部の校舎がある。その隣の付属する建物のところに、再びさっきとまったく同じヒデヨ・ノグチの銅像を見つけることができた。その建物の入り口には、「Centro de Investigaciones Regionales Dr.Hideyo Noguchi」(野口英世博士研究所)という名が打ってあった。なるほど。たしかに、「知らない人はいな」そうだ。

野口英世の黄熱病研究は、1918年のエクアドル赴任を皮切りにはじまる。翌年の1919年には、ここメキシコのメリダに赴任し、さらに翌年にはペルーを訪れている。1923年にはブラジルで研究に従事し、現在そのすべての地において、ヒデヨ・ノグチの名をいただいた研究所が存在している。

いまの医学界で、未解明な病原体の存在する地へ直接赴いて調査する研究者はおそらく一人もいないだろう。自らがその病原体をくらって死んでしまう危険性があるからだ。残念ながら、野口英世もそうやって(黄熱病にかかって)亡くなってしまった。

ヒデヨ・ノグチは、当時の日本人としては屈指のラテンアメリカをよく知る人物であり、さらには、人類学者顔負けのフィールドワーカーであったと云えるだろう。

野口英世は、1918年に日本に一時帰国したとき、日本の医学界から冷遇された。「こんな国へは二度と戻るものか」と思ったという(実際、その後日本に戻ることはなかった)。

しかし、遠く離れた世界の各地で、彼は「日本人」としての確かな足跡を残している。現に、ドクトール・ノグチ(野口博士)は、ここメリダでは一番有名な「日本人」だ。

灼熱の太陽とふんだんの湿気が棲みつくここ熱帯の地メリダで、人々のために黄熱病の研究に没頭したヒデヨ・ノグチ。

そんな、87年前の「日本人」に、オレは敬意を表せずにはいられなかった。



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