FC2ブログ
未分類 | 
Graphical Clock neon
Graphical Clock
ioi.toot
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
最近のコメント
カレンダー
05 | 2006/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
リンク
追越ノート―「ここ」から世界へ
≪2006.05  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30  2006.07≫
プロフィール

TAKESHI

Author:TAKESHI
下田にて

最近の記事
月別アーカイブ
「 2006年06月 」 の記事一覧
--.--.-- --
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサー広告    Top↑

2006.06.23 Fri
中田が残したもの

今朝の6時、日本代表のドイツワールドカップ2006は終わった。
大学の政治教官討論室で、みんなで一緒に試合を観た。外はもう明るくなっていた。

試合開始前、ブラジルの選手と親しげに話していた中田。
ハーフタイム終了後ピッチに出てくる時、前半のロスタイムに日本に同点弾をたたきこんだロナウドと親密そうに会話をしていた中田。

そんな彼の姿を見たとき、オレは激しい失望感をおぼえた。

紙面上でさんざん云われている「中田に足りないもの」を見た気がした。

もちろん、それによって試合中の彼のプレーが鈍ることはなかったし、試合開始(再開)のホイッスルがなったとたん、彼は別人のように勝利を目指してボールを追いかけた。

そうした相手選手との親しげな会話や雑談が、彼のプレーに負の影響を及ぼすということはまったくない。中田はそういう面で、厳しく自分をコントロールすることのできる人間である。

しかし、問題はそれを見て他のチームメイトがどう思うかということである。あれだけ云いたいことを云い、時には容赦なく苦言を呈してきた。ただ、日本代表というチームを勝利に導くために。しかも、サッカーの上手さという点では、中田には十分チームを率いる素質があった。しかし、中田と他のチームメイトとの温度差は、最後の最後まで最小限に縮まることはなかったように思う。

その原因が冒頭のような場面にあるのではないか、とオレは思う。ロナウドと親しく話せる中田を見て、ロナウドと親しく話せない他のチームメイトは、どうしても彼との距離を感じてしまうだろう。

そう、中田には「キャプテンシップ(captainship)」が微妙に欠けている。

野球のWBCで日本が世界一になったときから、イチローと中田のキャプテンシップがマスコミに比較して取り上げられるようになった。「中田もイチローになってほしい」という川淵キャプテンの発言から始まって、今日のニュース欄には、「イチローになれなかったヒデ」という見出しが載っていた。

たしかにWBC(特に後半戦の)のとき、イチローと他のチームメイトとの気持ちの温度差は全くといっていいほどなかった。まさに積極的な意味での「チーム一丸」だった。そしてそれが、日本が世界一を勝ち取ることのできた一番の要因であったとオレは思う。しかし、だからといって中田とイチローを比較してどうこう云うのは、実に幼稚でくだらないことだと思う。

イチローが中田になれないように、
中田もイチローになれやしない。

イチローにはイチローの「スタイル」があり、
中田には中田の「スタイル」がある。

それを何とか「一体化」させようというところに、日本人(あるいは日本のマスコミ)のつたない思考様式がうかがえる。ただ、イチローにはチームメイトとの温度差を最小限に縮めてチームを率いていくだけの「キャプテンシップ」があったのは事実である。


きょう日本代表がワールドカップに破れたその時点で、そこから代表選手へのバッシングは加熱するだろう。そして当然、中田への非難も集中するに違いない。

「中田はイチローのようには変われなかった」

それは結局そのとおりなのかもしれない。しかし、それを云うのなら、「変われなかった」のは中田だけではなかったはずだ。他のチームメイトもそうだった。中田だけを「変わるべき」存在として、日本代表の惨敗のスケープゴートとして非難することに、一体どれほどの意味があるというのか。少なくとも日本サッカーの将来にとって。

中田のいない日本代表の試合を想像してみてほしい。なんの面白味もないごくフツウのサッカー。観ないほうが眼の保養になると思う。しかし、中田が入ることで日本代表はあきらかに一変した。はじめて日本代表の試合を観たいと思った。いや、「中田の」試合を観たいと思った。そう思った人は、きっと少なくないに違いない。それほどまでに、中田は日本代表にとって重要な存在だった。

だからこそ、
中田が「変われなかった」のを嘆くのではなく、中田の欠点を非難するのではなく、
「中田が残したもの」を、日本代表の選手を始めとして日本のサポーターは見るべきではないのか。

次のワールドカップ、もう中田はいないのかもしれないのだから。

本当に「変わるべき」存在は、

中田ではなく、
日本代表であり、
日本のサッカー界であり、
日本のマスコミであり、

わたしたち自身であるのかもしれない。



スポンサーサイト

未分類    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

2006.06.20 Tue
日本のサッカー界へ

日本代表についてもう何も語りたくない
というのが正直なところだが、

もっとも腹が立つのはジーコが敗戦の原因を「暑さ」のせいにしていることだが、彼はこの大会が終わったら日本代表を去るのだからそれでもいいのかもしれない。

でも、日本代表はそうはいかない。
はっきりと負けを認めることからしか、その次へすすむことはできない。

いまの日本代表に何が足りないか!?

現在メディアでは、「決定力不足」というコトバが溢れている。
きっとこの前のクロアチア戦の柳沢のシュートミスや、玉田の不甲斐なさを嘆いてそう評しているのだろう。たしかにその批評は的を得ているのだが、「それを云ったらおしまい」という問題でもある。

柳沢は決定力がない、玉田も決定力がない、高原も決定力がない、と日本のFW陣の決定力不足を嘆いたところで状況は何も変わらない。日本の多くのサポーターは彼らを過大評価しすぎている。彼らはいまの日本の最高のFW陣だ。しかも彼らは精一杯やった。手なんか抜いていない。しかししょぼかった。

つまり、要は日本のFW陣は精一杯やって「あの程度」なんだということ。日本のサポーターは大会終了後、素直にその事実を認める必要がある。それともうひとつ。

ストライカーは「なる」ものではない。
ストライカーは「生まれる」ものだ。

しかし、残念ながらいまの日本のサッカー界にストライカーを「生む」だけの土壌はない。つまり、日本のサッカー教育にこそその根本的な問題が存在している。

ある程度世界に通用する日本代表のMF陣を「黄金の中盤」と称して喜んでいるのは極めて悲しい現実であり、それこそ嘆くべきことであろう。

「中盤」が「黄金」だからといって何だというのだ。
ただ単に「チャンス」メイクが増えるだけで、直接にゴールに結びつくものでは決してない。さらに云うならば、いまの日本のサッカー界は、中盤「しか」黄金にできないのだ。

ディフェンスができてオフェンスもできて広い視野でチャンスメイクもできるプレーヤー

そんな(つばさ君のような)「オールマイティー」な選手を育て上げることに日本のサッカー界は腐心を費やしてきた。

ところがそんな選手は実際にはいやしない。たとえいたとしても、それは日本レベルやアジアレベルでのことだろう。日本やアジアでそのような評価を受けていたとしても、世界に出た途端、

ある程度ディフェンスができて、ある程度オフェンスもできて、ある程度広い視野でチャンスメイクができるプレーヤー

となってしまう。
そしてそんな選手は使えない。
しかし悲しいかな、それが日本のサッカー界の現状だ。

「オールマイティー」を目指すがあまり、すべての面でまんべんなく何でもこなすことができるが、すべての面で決定的な何かに欠ける「使えない選手」を量産している。

日本のFW陣よりもっと末期的かつ悲劇的なのは、日本のDF陣だ。
あれはひどい。オーストラリア戦とクロアチア戦を観たかぎり、世界最低のDF陣だ。サントスも宮本も中澤も、とてもじゃないがディフェンダーの身体つきではない。あんなのは世界にはまったく通用しないという事実をオレたちはこの大会で目の当たりにした。

「ストライカー不在」なんて云って嘆いている場合じゃない。DF陣が世界最高のザルであるがゆえに、中盤の選手が一生懸命ディフェンスもしなければならない。中田ヒデはトップ下に置いて攻撃的に使った方が彼の才能が一番映えるのだが、いまの日本代表では無理なはなしである。

日本サッカー界の緊急の課題は、各ポジションに特化した「スペシャリスト」養成の教育を促すことである。そうしなければ、日本代表はこの先いつまでたっても世界的に「ある程度」の域をさまようことになるだろう。

「オールマイティー」はいらない。
「オールマイティー」が通用するのはしょせんアジアレベルまでだ。



未分類    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

2006.06.13 Tue
ヒディングの采配

昨日のオーストラリアVS日本の試合。

日本のサポーターにとってはひどくショッキングな出来事だったかもしれないが、コパデルムンドにとってはきわめて妥当な結果だったと思う。

要は、
オーストラリア代表は強かった。
日本代表は弱かった。
それだけのこと。

いつもの日本代表だった。

オーストラリアが逆転に成功し、ロスタイムに1点追加したときに思った。
オーストラリアは強い。
ヒディングはさすがだと。

その時ちょうどオレの頭に思い浮かんだのは、4年前の日韓コパデルムンド決勝リーグ一回戦の韓国VSイタリアの試合だった。0-1で負けていた韓国は、同点に追いつき延長戦の末イタリアから奇跡的な勝利をもぎ取る。その時の韓国代表の監督がヒディングだった。

イタリアはあの時みずからの1点を守りきろうとしていた。
昨日の日本がみずからの1点を守りきろうとしていたように。

状況はみごとにリンクする。

両者に共通して云えることは、
4年前の韓国も昨日のオーストラリアも、すべてをかけて勝ちにきたということ。決して守りきって勝とうとしなかったということ。

コパデルムンドは「守りきろう」として勝てるような大会では決してない。

あのフォワードは一体なんだったのか。
ドイツ戦の高原は嘘だったのか。

後半に入ってから同点にされるまで、前半同様日本は数多くのチャンスをつくった。なのにシュートの数はまったくだった。後半の試合で日本が放ったまともなシュートは、試合終了間際の福西のそれくらいだった。

「決定力不足」とかいう以前の問題だった。福西のシュートが外れてそれを「決定力不足」と云う解説者は見方が間違っている。「チャンス」と「結果」を混同している。

「チャンス」と「結果」は違う。
サッカーでいう「結果」とは「ゴール」そのものであり、それ以外のなにものでもない。しかし、今日のサッカーにおいて「チャンス」を「結果」に結びつけるのは実に難しい。アンリだって決定的な場面で決められないし、ドログバだってキーパーとの一対一を逃すし、リケルメだってロナウドだってPKを外したりしている。つまり、世界的に超一流の選手だって決定的場面(「チャンス」)において確実に「結果」をだせるとは限らないのだ。

それにもかかわらず、日本代表の選手が(特にフォワードの選手が)「チャンス」でシュートをミスったからといって「決定力不足」と評するのは実に酷なはなしである。

確かにそういう批評は選手の育成にとってとても大事なことだ。でもいまの日本代表にはそれ以前の致命的な問題が存在する。

「チャンス」を活かしていない。

「結果」をだしていないのではない。それ以前の、「チャンス」を活かすことすらできていないのだ。つまり、「チャンス」をみずから無駄にしている。

ミスをしたりシュートを外してしまうのが問題なのではない。
ミスをしたりシュートを外してしまうのを恐れるがあまり、プレーが消極的になってしまうことが問題なのだ。

「チャンス」を活かすとは、ゴールを決めるということではない。
「チャンス」を活かすとは、シュートを打つということである。

シュートを打たないかぎり、ゴールは生まれない。
「チャンス」を活かさないかぎり、「結果」は生まれない。

「チャンス」は何度でもやってくる。
いまの日本代表は「チャンス」をつくる能力には長けている。
世界的にみても。

でも、それを積極的に活かす能力は極端に劣っている。

技術の問題というよりは、メンタルの問題だと思う。
だからこそ致命的なのだ。

みずからがつくりだした「チャンス」の数に見合うだけのプレーをしていたのは、
オレの知るかぎりあのドイツ戦だけだった。

それだけにあの試合はすごかった。
まるで日本代表ではないようだった。



未分類    Comment(1)   TrackBack(0)   Top↑

2006.06.11 Sun
Albirroja(パラグアイ代表)

昨日のイングランドVSパラグアイの試合。
パラグアイは完敗だった。

ベッカムのフリーキックをガマラがオウンゴール。
しかもガマラが。
守備の要であり、パラグアイ代表の精神的支柱であるガマラが。
これによって、地球の裏側においては彼に対する非難はおそらくすごいものになっているとは思うが、冷静に見ればあれは仕方がない。
ベッカムのフリーキックが良すぎた。
ガマラが触らなくてもキーパーは反応できていなかったし、確実に得点につながっていたと思う。

でもくやしい、というのが本音だ。
メディアは相変わらずイングランド代表のことばかり取材し、パラグアイ代表について解説者が知っているのはガマラとサンタクルスのことくらいで、スポーツバーにおいても「とりあえずイングランドサポーター」ばかりだった。それはそれでいいのだが、ただ、最大公約数的な日本国民の思いどおりになってしまったことが本当にくやしかった。
どのくらいくやしいかというと、「ドーハの悲劇」なんかとは比べようにならないくらい。

パラグアイのようなチームはいま世界の中でかなりめずらしいと思う。
昨日の試合を見てて思ったのは、パスが極端にざつで下手なこと。そしてちっとも全力で走りきらないこと。そもそも「戦術」というコトバ自体が存在しているのかどうか疑われるくらい、「戦術」とは無縁のチームだ。
この「戦術」論や「システム」論が全盛期の時代に。

オレはパラグアイ代表の試合を何度も観たことがある。パラグアイ人ともいっつもサッカーしてた。だから昨日の試合を観ていてそのプレースタイルに納得がいったし、少し懐かしかった。

彼らは、必要最小限の力で試合に勝とうとする。決して無理しようとはしないが、勝ちに対する執着心がものすごく強い。だからずるがしこいプレーが発達する。

頑なに自らに与えられたポジションのみを全うして単調な攻め(カウンター)と「一対一」の強さのみを武器とするその地味なサッカースタイルは、かつてヨハン・クライフ率いるオランダがもたらしたトータルフットボール革命以前の古典的なサッカースタイルそのものなのだ。



未分類    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

2006.06.10 Sat
「Golden Midfielders」

昨夜のコパデルムンド第一戦
ドイツVSコスタリカ

鬼クローゼの2ゴール。
それほど身長が高いわけでもないが、ゴールのあるところにいつもその男はいる。
まるでかつて「爆撃機」と称されたゲルト・ミューラーのように。

そして極めつけは、スローインのボールをダイレクトでゴールネットに突き刺したフリンクスの弾丸スーパーショット。
まるで日向小次郎のタイガーショットを実際に再現したようなあざやかさだった。

そう、コパデルムンドはついに開幕してしまったのだ・・・


そして今夜行われるイングランドVSパラグアイ

チェルシーコンビのJ・コールとランパード。
魔法のフリーキックを持つベッカム。
そして、正確無比なキラーパスと強力なミドルシュートを持つスティーブン・ジェラード。
まさにイングランドの中盤は世界最強の「Golden Midfielders」といえるだろう。
日本でよく云われる「黄金の中盤」とは次元が違う。

フォワードは現在絶好調のクラウチ。
不調といわれつつも決めてくるオーウェン。
そして新生ウォルコット。
さらにルーニーもすでに復活して今夜の試合に出場するかもしれない。

では一方のパラグアイは!?
いつものようにガチガチに守りを固めてカウンター狙いでくるだろう。
パラグアイは一貫してこのスタイルを一度として崩したことはない。地味で頑なで堅固なディフェンス。

この試合のみどころは、
「Golden Midfielders」の巧みで目を見張るような試合展開と
パラグアイディフェンス陣の耐えるサッカーとの一騎打ちにある。

そしてさらに云うならば、
ヨーロッパの「正統派」サッカーと
南米の「クラシック」サッカーの歴史を賭けた一戦であるといえるだろう。



未分類    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

2006.06.09 Fri
Copa del Mundo 2006

ノーベル文学賞を受賞したメキシコの詩人オクタヴィオ・パスは彼の著作の中でこういっている。

「サッカーとフィエスタがなかったら、われわれは革命を起こしていただろう」

コパデルムンド(ワールドカップ)という舞台では、いまや「サッカー」と「フィエスタ(祭り)」は同義である。

オリンピックを世界最大のスポーツの祭典と呼んでいるのは、先進国の人たちだけだ。

オレが2年と3ヶ月滞在したパラグアイでは、オリンピック(アテネ五輪)なんて雑談の話題にすらのぼらなかった。ただ、パラグアイがオリンピックではじめてのメダルを獲得したことだけは国民の注目をあびた。それも、サッカーという種目において。

途上国を旅することが多かった自分に、サッカーについての記憶の残照はいくつかある。

パキスタンのラワルピンディーの高原で地元の子どもたちと夢中でボールを追いかけた。汗だくになって、そのあと記念写真を撮った。

そのむかし「世界の半分」と称えられたイランのイスファハーン。巨大なモスクが存在する王の広場では、夜になるとチャドルを纏った女性たちとその家族らが広場の中心の芝生でピクニックを開始する。そしてその周囲のあちこちでは次々に男どもがサッカーを繰りひろげる。英語も日本語もまったく通じない状況で、それでもなんとか彼らとのコミュニケーションは成り立っていた。サッカーというスポーツをとおして。

みんなオレのことを「NAKATA! NAKATA!」と呼んでいた。いま思えば、当時中田はイタリアのASローマでプレーしていた。そしてイランの英雄アリ・ダエイはドイツのバイエルン・ミュンヘンで活躍していた。

サッカーのすばらしさを身にしみて感じたのは南米のパラグアイでだった。仕事が終わるとサッカー、冷たいビールを飲んではサッカー、食事のときもサッカー、テレビをつけてもラジオをつけてもサッカーの話題が流れていないということはなかった。

初対面の相手には、名前をきかれ、その次に
「Que club de sos ?」(どこのクラブのファンだ?)
ときかれるのが通常だ。

パラグアイは「途上国」というカテゴリーに位置付けられ、国連の発表する「絶対的貧困率」も南米では上位を争う。

しかし、
そのむかし宗教が貧困者の魂を救済したように、
いまではサッカーが彼らの魂を救済しているのはまぎれもない事実である。

ヨーロッパの人たちにとってサッカーは文化かもしれないが、
南米の人たちにとってサッカーは夢そのものだ。


コパデルムンドは今日(6月9日)開幕し、あしたイングランドVSパラグアイの試合がおこなわれる。あしたは東京のスポーツバーにみんなで集まって大スクリーンでその試合を観戦する。

今も地球の裏側では
暑くて熱い盛り上がりをみせているに違いない。

あしたの同じ時刻、違う場所で、同じ試合を見、地球の裏側の人たちと喜怒哀楽を共有する。

そんな地球規模の出来事に得も云えぬよろこびを感じながら。



未分類    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

2006.06.01 Thu
「Chance」-日本代表へ

昨日の日本VSドイツの試合。
日本にはいくつもの得点チャンスがあった。

「決定力不足」と云われる日本のフォワード。
たしかに、他の国のフォワードに比べると、日本のフォワード陣は意外性に極端に欠けるし、チャンスに対する決定力も総じて低い。

しかし、チャンスを生み出すことはできる。
ある程度すぐれたミッドフィルダーの機転と、チームワークによる早いパス回しを基軸として。
それが昨日の試合であきらかになった。

一度逃したチャンスは二度とめぐってこない

という格言がある。
それはまったく確かなことだ。

「過去」に戻ることができないように、一度逃したチャンスは二度と戻ってきはしない。

でも、
二度目のチャンスがこないとは限らない。
三度目のチャンスだって。
四度目のだって。
五度目だって・・・

チャンスは何度だっておとずれる。

大事なのは、
失ったチャンスを省みることではなく、
次にチャンスが来ると信じることだ。

つねにそれを信じつづけること。

かつてジーコは云っていた。
「フォワードはすべての可能性を信じなければならない」


そう、いかなる状況に追い込まれようとも。



未分類    Comment(0)   TrackBack(0)   Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。