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追越ノート―「ここ」から世界へ
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プロフィール

TAKESHI

Author:TAKESHI
下田にて

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「 2006年04月 」 の記事一覧
2006.04.30 Sun
クロスロード
青年海外協力隊春募集の説明会がひととおり終了した。

おとといの金曜日は、新宿の野村ビルの48階で説明会が開催された。
オレが通されたのは新宿副都心を一望できる部屋で、「東京砂漠」を傍から眺めるのに絶好のロケーションだった。

今月各地で開催された募集説明会のうちの、計6個にオレは参加した。
幡ヶ谷、千葉、つくば、柏、船橋、そして新宿。さいごの新宿は当初の予定にはなかったが、なんだか知らないがよばれることになった。

任地での体験談を話したり、応募者の質問に答えるというのが、この説明会でオレに課された主な役割だった。「村落開発普及員」という最も人気のある職種だけあって、事業説明の後の職種ごとの分科会では、毎回たくさんの人がオレのまわりに集まった。

この募集説明会は、オレにとってとても有意義なものだった。たくさんの「変なやつ」に出会えた。

幡ヶ谷では、協力隊をキャリアアップの一つとしてとらえ、将来は国連ではたらきたいという女性がいた。「いずれにせよ今の会社は辞めます」といっていた。

千葉では、ワーホリでアフリカに行っていたという神田外語大の女の子が印象的だった。途上国の人たちと経験を共有する喜びを知ってしまったようだった。そのときの体験記をあとでメールで送ってくれた。

つくばでは、オレの現在の大学院の指導教官(人類学)である、元ソロモン諸島協力隊OBのS先生のゼミを受講している国際総合学類の男の子(大学生)に出会った。彼はJICA職員の試験も同時に受けているが、まずは途上国の現場を知りたいという思いが強く、「両方受かったとしても協力隊に行こうと考えています」と熱く語っていた。

柏には、熱い人たちがたくさんいた。そのときに出会ったある女性は、サンフランシスコに語学留学した後、突然思い立ったようにインドへ向かった。カルカッタにあるマザーテレサのつくった「死を待つ人の家」で2ヶ月間無心ではたらいた。彼女がそこで感じた「なにか」とオレが協力隊で感じた「なにか」にどこか共有する部分があったのだろう。すぐさま意気投合して、お酒をまじえながら熱い「ぶっちあけトーク」をたくさんした。「日本でこんなに同じ温度で話せる人に出会えると思ってなかった」といっていた彼女。オレも彼女に出会えてほんとによかった。そんな元モデルの彼女はいま就活中。

船橋では、帰国後の進路(就職)が不安でどう踏み出したらいいかわからない青年がいた。協力隊以外のはなしをたくさんした。

新宿には、たくさんの人たちが来た。最前列でこれでもかといろんな質問をあびせかけてきた青年。それは、自分自身に対する問いかけでもあった。説明会をコーディネートしていた(社)青年海外協力協会の女性。彼女も元村落開発普及員で、なんとオレの出身校がある佐倉市の出身だった。協力隊の活動で、「街づくり」に関心を持った彼女は、「地元の佐倉市をもっと活気づけたい」として現在計画を立案中。その具体的な内容についてはこんど話してくれる予定。説明会が終わって駅への帰り道を共にしたOLの彼女は、「あたし、5年いまの企業に勤めているんですよ。でも・・・いまやってる仕事とか、いまの生活とかにすごく疑問をかんじてて・・・・・・」 そのあとのコトバは継がれなかった。

なかには「とりあえず話だけききにきた」って人もいたけれど、ほとんどのひとがいまの自分に真剣だった。熱いひとが多かった。いい目をしている人がたくさんいた。

みんな人生の「クロスロード」に立っていた。

そんな彼/彼女らの人生に自分が少しだけでも「クロス」できたことが一番うれしい。


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2006.04.29 Sat
今日が「特別な日」のあなたへ
   
   楽しい家       作者不詳


楽しい家に住もう

楽しい花をたくさん植えて

楽しい手紙が来るのを待とう

楽しいうたをたくさん歌って

楽しい絵だってたくさん描こう

ぜんぶなくなるまで


本当に欲しいものを

欲しいという

ただそれだけのことが

どうしてそんなにも怖かったのか

ほらまたお日様が昇るよ


本当はぜんぶ好きだった   


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2006.04.28 Fri
なにもない国-パラグアイ③
村上龍の「パラグアイのオムライス」には、「パラグアイの日本料理屋」が登場する。

首都アスンシオンの日本料理屋なら知っているが、エステ市の「日本料理屋」はオレは知らない。しかし、エステ市周辺には日系人の移住地があるため、それが存在していたとしてもなんらおかしいことではない。少なくとも、作品の舞台である10年以上昔のエステ市には存在していたのだろう。

この作品中にはパラグアイの風物が無造作に登場している。

「橋の下で釣れるドラードという黄金の魚」

「ドラード」はスペイン語で「黄金」を意味し、その名のとおりドラードという魚は金色に光かがやいている。引きがものすごく手ごたえがあるため、ドラードを釣ることは「釣り人の夢」とまでされている。そしてそれはまさに、文中の「橋の下」を流れるパラナ河に数多く生息している。

オレはパラグアイに2年と3ヶ月滞在したが、一度としてその魚を目にしたことはない。河の汚染も進行し、ドラードは昔に比べてめっきりその数を少なくしてしまった。いまでは「幻の魚」である。


「その時入り口の扉が開いて、現地人の少年がビニール袋を下げて入ってきた。ビニール袋には金色の魚が入っていた。釣り上げたドラードを売りに来たのだろう。」


当時はきっとエステ市でドラードがふんだんに漁獲され、街中で売られていたのだろう。ドラードの少年は、いまとなっては失われた光景となってしまった。


オレはこの「パラグアイのオムライス」をはじめて読んだとき、おもわず胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、それをおさえることができなかった。この作品には、作者の企図いかんにかかわらず、”パラグアイらしさ”があふれていたからだ。

では、”パラグアイらしさ”とはなにか。
それは作中の会話にさりげなく表現されている気がする。


「そんなにオムライスが好きなの?」
うれしそうにスプーンを口に運ぶ少女に私はそう聞いた。
「はい、好きです、でも、オムライスってとても手間がかかるんですよ、だから、スカイラークとかデニーズとかないでしょう?」


前々回のブログで「なにもない」のがパラグアイの特徴であるとしたが、「手間がかかる」のもパラグアイの特徴である。ひとまずは、その2つをして”パラグアイらしさ”とすることができるだろう。

観光客は、あえて「なにもな」くて「手間がかかる」国に行こうとはしない。それは合理的にみてしごく理にかなっている。一般的な観光客は、「なにか」を求めて異国の地を訪れる。それはピラミッドであったり、エッフェル塔であったり、イグアスの滝であったりする。そしてその志向を強めるものとして、「世界遺産」というブランドが存在する。

「世界遺産」に関する本は今日ではたくさん出版されており、それはそのまま資本主義の企業戦略に結びついている。

「なにか」を求める志向は、刺激を求める志向と意を同じくしている。しかし、刺激はいつかは慣れる。だから次にさらなる刺激を求めなくてはならない。もっと強くもっと新しい刺激を求める姿は、いまの日本人によく似ている。

刺激を求める気持ち、つまり人間の物欲はとどまるところを知らない。刹那的な充足の後には、更なる羨望が待ちうけている。もっと性能のいい携帯を、パソコンを・・・そうやって世の中は機械化されていく。厳密には、人と人とのコミュニケーションが機械化されていく。機械化や効率化にともない、「人手間」はどんどん省かれていく。それが今日の日本社会だ。

みんなこぞって「なにか」を求める時代。「なにか」を求めるのはだれにでもできる。
でも、「なにもない」ところに「足る」を見い出すのはいまでは本当に難しくなってしまった。

「パラグアイのオムライス」のさいご。

「あれからオムライス食べたかい?」
いいえ、と彼女は言った。東京って本当にオムライスがないんですね、あの時うんと食べてて、本当によかったわ・・・・・・。




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2006.04.18 Tue
なにもない国-パラグアイ②
村上龍の小説で「エルストレオーネ」という名で登場するパラグアイのエステ市は、ブラジルのイグアス市と国境を接している。

両都市は、パラナ河をはさんで「友情の橋」(Puente de Amistad)によって結ばれている。

エステ市はパラグアイ一の商業都市であり、パラグアイ一の危険都市でもある。街にはマフィア系の中国人やアラブ人がたくさんいて、パチモンの電化製品がたくさん売られている。

オレはかつて2回ほどエステ市を訪れたことがある。そのうちの1回は、イグアスの滝へ行くためだった。

友情の橋は人や車の行き来が頻繁で、街は騒然として人の熱気に満ち溢れていた。

わずか200mほどの友情の橋をはさんで、パラグアイ側のエステ市とブラジル側のイグアス市は、驚くほどに景観を異にしている。

ブラジル側へ橋をわたると、きれいに舗装された道路と整然とした街並みがひらけており、そこでは両国の「経済格差」が如実に表現されていた。


しかし、それも今となっては昔のはなしである。

友情の橋は今年(2006年)の1月、ブラジルの連邦警察によって一時的に封鎖された。

もともと関税の格差を利用した一般消費財(電化製品、酒、タバコ)の正式輸入や麻薬の密輸入によって、つまりは関税収入によってエステ市の住民は生計を立てていた。エステ市は、アングラ経済(地下経済)のメッカだった。

しかし、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイが正式加盟するメルコスール(南米南部共同市場)の政策により、対外共通関税が段階的に適用され、それは今年の1月1日をもってすべての品目に対して徹底された。

かくして国境貿易は衰退し、街には失業者があふれた。日本に出稼ぎにくるパラグアイ人も増えたという。現在友情の橋の税関では、ブラジルの連邦警察によって厳重な取締りが行われている。暴徒と化したエステ市住民と警察とが衝突する事件も勃発し、事態はいまだに収拾を見せてはいない。


村上龍の小説「パラグアイのオムライス」には、オレが訪れたよりひと昔前のエステ市のようすが描かれている。


エルストレオーネは無税商店の集まる街である。買って三十分もすると動かなくなるニセモノのカルチエを売る露店が並び、ブラジルではほとんど手に入らないスコッチやコニャックが無税で売られ、何軒かは本物のブランドものを売る高級店もある。商店が閉まる日曜と深夜を除いて、街は常に人であふれ、品物を持ち込もうとする者と持ち出そうとする者で橋はいつも渋滞し、税関のまわりはクラクションと怒号でまるで戦争のようなにぎやかさだ。


「税関のまわり」の「にぎやかさ」は、今では違った種のものとなってしまった。

あの頃へはもう二度と戻れない。


(次回へつづく)


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2006.04.13 Thu
なにもない国-パラグアイ①
「大規模な遺跡もなく、雄大な自然美もない。だが、素朴でのどかなこの国はまさに桃源郷。」

『地球の歩き方』の「パラグアイ」の見開きはこの一文から始まる。アルゼンチンとチリをメインに持ってきた本書で、パラグアイに割かれたページは448ページ中わずか27ページだった。

オレがパラグアイの地で暮らし始めてまず受けた印象は、

「なにもない」

というものだった。そしてそれは今も変わらない。

上記の『地球の歩き方』の「パラグアイ」についての一文は、きわめてなにげない一文ではあるが、実に示唆に富んだ一文でもある。

まず、「大規模な遺跡もなく、雄大な自然美もない」というフレーズはまったくその通りだ。しかし、少々云い方があまい。

「大規模な遺跡もなく、雄大な自然美もない。たいしたビルも、自動販売機も、セブンイレブンもない。液晶テレビもない、パソコンもない、トイレットペーパーをそのまま流せるトイレがない、・・・∞・・・ しかしサッカーがある」

と、より正確さを求めるのならそうなるだろう。

そしてもう一つ。
「大規模な遺跡もなく、雄大な自然美もない」ということは、この『地球の歩き方』の読者(それは「一般的な観光客」と置き換えることが可能であろう)が、「大規模な自然」や「雄大な自然美」を求めているということの裏返しでもある。つまりそれは、いわゆる「観光客」が旅行に求める嗜好性を暗に示してもいる。

パラグアイには、2つばかり、かろうじて「遺跡」と呼べる「遺跡」が存在する。その中の一つは「トリニダー遺跡」といい、ユネスコの世界遺産に義理で登録されている。この遺跡は歴史的にみると非常に興味深いものなのであるが、観光客にはまったく相手にされていない。オレは2回ばかしそこへ行ったが、誰一人として観光客はいなかった。というより人がいなかった。「世界一しょぼい世界遺産」とオレは呼んでいる。

世界三大瀑布の一つであるイグアスの滝は『地球の歩き方』ではパラグアイのページに紹介されているが、厳密に云うとこれはパラグアイの領土に属していない。イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンの2ヶ国にまたがって存在している。

ただ、ブラジルと国境を接する「シウダー・デル・エステ」という街がパラグアイに存在し、その橋を渡ったすぐ隣がブラジルの「フォス・ド・イグアス」という街になっている。

パラグアイの「シウダー・デル・エステ」は、村上龍の『村上龍料理小説集』の中で、「エルストレオーネ」という仮名で登場する。

本書は32の短編小説から成っており、各小説の見出しには「Subject」とあるだけでタイトルは付けられていない。その中の「Subject15」に、「シウダー・デル・エステ」を舞台とする小説が存在する。

この小説は、高校生対象の『新編 現代文』(大修書店)という教科書に、「パラグアイのオムライス」というタイトルで載っている。


ちなみに
パラグアイにオムライスはない

・・・と思う。


(次回へつづく)


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2006.04.11 Tue
記憶の残像-エジプト記②

聖殿

いくつ柱を建てようと
どんなに柱を太くしようと

栄えつづけることはできない

空をみるために
小鳥がさえずるために
神殿は 滅びた

美しき 空のいけにえ


――― 1999年 ルクソール カルナック神殿にて


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2006.04.10 Mon
記憶の残像-エジプト記①
そのむかし、オレはアレクサンダー大王になりたかった。

紀元前4世紀に若干20歳で小国マケドニア国王の座を継承したアレクサンダーは、小アジア、エジプト、メソポタミア、インドへと大遠征を開始し、空前の大帝国を築き上げた。それによってギリシャ文化とオリエント(東方)文化が融合したヘレニズム文化が生まれ、それは古の日本にまで影響を及ぼした。

アレクサンダーの家庭教師がアリストテレスであったことは今ではよく知られている。しかし、彼の「東方大遠征」が、エジプトの砂漠のまん中の、ちっぽけなオアシスから始まったということを知る人は意外に少ない。

-スィーワオアシス-

エジプトの西の端、リビアとの国境に近いところにそのオアシスは存在する。大学2年の夏休み、オレはそこを訪れた。それが初めての海外旅行だった。

「オアシス」というコトバを聞くと、何もない広大な砂漠のただ中に突然出現する水とヤシの楽園をイメージする人が多いが、実は本当にその通りである。

スィーワオアシスに到着したのは真夜中だった。

首都カイロにあるような雑然とした喧騒はそこにはない。エジプトの各地でわんさかいるバクシーシ(喜捨)をねだる子どもたちや、しつこい物売りや、商品の売値をぼる商売人もそこには一切いなかった。

首都カイロから遠く離れているため、観光客もほとんどそこを訪れない。昼間にのんびりと散歩していると、時おり馬車がゆっくりと通りすぎていった。どこか別次元の空間にタイムスリップしてしまったような感覚だった。

しばらく歩くと小さな湖に出くわす。本当の「沈黙」とは、実は空恐ろしいものだということを、オレはそこで知った。 ・・・オレは本当にそこにいたのだろうか・・・ 

そこからさらにもう少し歩くと、土レンガを雑に積み上げたちっぽけな塔がみえてくる。それがアモンの神殿だ。神殿と呼ぶにはあまりにもみすぼらしく威厳のそがれた様態をしている。そこには人がだれもいなかったし、周辺にも現地人の民家はまったくなかった。

ただ、透きとおるような空の青さと、悠久の強い陽射しによる廃墟のうす焦げ茶色が、くっきりとした色彩のシンメトリーをなしていたのは今でも眼に焼きついている。

そのむかし神殿と呼ばれたその瓦礫の塔には、ひとつの小さな穴が開いていた。そこを覗くと、眼下に低木の森林がむこうの方へ悠々とひらけているのが見わたせた。そしてその方角のかなたむこうは、メソポタミアやインドへとつながっていた。

アレクサンダーはそこで神の神託を授かった。
すべてはそこからはじまった。


   神託-アレクサンダー大王に

むかし そのむかし その人は
弱虫の少年だった
強いものになろうと
弱い人間として

やがて
世界を調和させようと

崇高なるもの
真・善・美への憧れ

なまりの陽射しが降りしきる 砂漠のただ中
アモンの神殿で

あなたのみたものは 何だったのですか

           
       ――― 1999年 エジプト スィーワオアシスにて


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2006.04.09 Sun
変わらなきゃ
青年海外協力隊の春募集がはじまった。

オレは今月5つの募集説明会に呼ばれている。幡ヶ谷と千葉とつくばと柏と船橋。そのうち幡ヶ谷と千葉はもう終わった。

協力隊への参加推進を目的として、会場に来た人の相談にのったり、任地での体験談を話したりするのが主な業務だ。

そこでいつも聞かれる質問がある。

「協力隊に参加して何か変わったことはありますか?」

そしてオレはいつも返答に困る。

―変わったこと―

きっとたくさんある。もしかしたらすべてが変わったかもしれない。でもそれをコトバにするのは難しい。コトバにしたとたん、きっとそれは陳腐なものになってしまうだろう。だから云わない。というより云えない。というより自分でもまだよくわからない。自分でもよくわからないことを当然他人にうまく伝えることはできない。だから返答はいつもあいまいなものになる。

協力隊の説明会に足を運ぶ人のほとんどは、自ら「変わる」ことを求めている。でも実はそうした人たちのほとんどが、既に「変わった」存在であるということに彼らは気づいていない。

既に「変わった」やつらが、さらに「変わる」ことを求めると「大変」なことになる。だからいつも協力隊ってのは「大変」なやつらが多い。

きのうオレの大学(大学院)で入学式があった。パラグアイで同期の隊員だったフタミと一つ下の隊次だったトモキートが入学してきた。オレたち新入生なのに誰一人としてサークルの勧誘にこなかったぜと自嘲していた彼ら。そのうちの一人は「いやー大学院ってサイコーだな」と云っていた。まだ何一つ大学院の授業を受けていないのに。

水なし電気なし彼女なしの生活を送っていたあのひとは、昨年アメリカのハーバード大学に入学して今年国連の職員になる。

大手証券会社を退職して参加した同期のあいつは帰国して大手銀行員になって約一年勤めたが、結婚したあと会社を辞めてJICAのボランティア調整員になることがいまさっき決定した。

そんなあいつは今年の8月にボリビアへ発つ。
そんなオレも今年の8月にメキシコへ発つ。


待ち合わせはサントドミンゴ村がいいだろう。


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